ジェンダーの歴史 女性「排除」の壁厚く 〈乗松聡子の眼〉


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 千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館で10月6日から12月6日まで開催された「性差(ジェンダー)の日本史」展に行ってきた。

 「ジェンダー区分」、つまり人を「男」と「女」に分け、違った役割を定める制度が古代からどのように形成されてきたかを展示する、画期的な企画だった。

 展示によると、古墳時代までは、邪馬台国(やまたいこく)王卑弥呼(ひみこ)に象徴されるように、女も男も区別なく政治参加し、首長の座についていた。それが、大陸に対する軍事的緊張等を背景に男性優位が生まれた。7~8世紀にかけては中国の法体系(律令)を取り入れ、「男性優位・父系優位の国家体制」への切り替えがなされたという。

 展示の中に、群馬県高崎市にある、世界遺産の「山上碑」(681年)の複製があった。そこには長利という僧が、自分が母と父から生まれた児であるという系譜を刻んでいる。7世紀末以前の系譜は、のちの父系系譜とは違い、「娶(みあ)いて生む子/児」という定型句で母と父を相称的に記したという。

 私はこれに見入ってしまった。カナダに移住して出産したときの体験がよみがえってきたからである。出生証明書を取り寄せたとき、私の旧姓の名前が上段に、夫の名前がその下に記されており、「サトコ・オカと○○(夫の名)の子である」とあったのである。新鮮な驚きに包まれた。日本ではいつも後だった。戸籍では夫が「筆頭」だった。住民票では彼が「世帯主」だった。

 それが、カナダでは生まれた子の親として私が「筆頭」なのだ。それも元の名前で。最初は「え、これでいいの?」と思った。しかし考えてみて、そう思ってしまう自分の中に、家父長制の呪縛があることに気づいた。産んだのは私なんだから、私が先で何が悪い。これでいいんだ!女性としてのエンパワーメントの瞬間であった。

 企画展では、その後中世において仏教信仰が女性差別観を強化し、近世では「職人」から女性が排除され、近代・近世において政治の場から女性が分離されていった。明治憲法体制下でジェンダーを絶対化させ、政治・教育・職業において女性を排除する法制度が敷かれたという、ジェンダーは歴史の所産である数々の証拠を見た。

 異例の売り上げを見せているという、この企画展の分厚い図録(歴博HPで買える)にこうある。「男は仕事、女は家事・育児―とイメージされる固定的な性別役割はけして伝統ではない。『近代』とは伝統社会が備えていた多様な秩序をジェンダーで一元化し、性差による非対称的な壁を制度によって構築した。」

 今の日本を見ても、国会議員の女性比率は約1割に過ぎず、世界191カ国中165位である。群馬県草津町では、町議会でたった1人の女性議員が町長に性暴力を受けたと訴えたことで、他の議員たちがリコールを主導、住民投票で失職させられた。3年前、宮古島唯一の女性市議が自衛隊への恐怖を口にしただけで長期間にわたりバッシングに晒されたことは記憶に新しい。

 戦後75年、両性の平等を認めた戦後憲法下において、どれだけ女性は「排除」された場所に戻ってこれたのか。壁は厚いままだ。

(「アジア太平洋ジャーナル・ジャパンフォーカス」エディター)