沖縄から見守る第二の故郷 1979年から19年間福島大の教員 琉大名誉教授・渡名喜さん<刻む10年 沖縄から、被災地から>2


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福島県で暮らす沖縄県出身者らで作った冊子を手に、福島への思いを語る琉球大名誉教授の渡名喜庸安さん=2月21日、那覇市泉崎の琉球新報社

 初めて福島の地を踏んだのは、東北新幹線が開業するより前だった。琉球大名誉教授の渡名喜庸安さん(71)=南風原町出身=は、1979年に福島大学に赴任し、19年間を過ごした。「大学教員として最初の土地で、その後の研究活動のベースを学ばせてもらった。福島は第二の故郷だ」と思いを寄せる。

 琉球大を卒業後、名古屋大で修士・博士課程を修め、助教授として福島大へ。「自由闊達(かったつ)で意欲旺盛」な雰囲気の中で、行政法の研究に打ち込んだ。

 80年代半ばに「福島で活躍する県出身者を取材したい」との本紙の依頼を受ける。「1人ではなく、他の県出身者も一緒に」と思い、福島市内の沖縄料理屋の店主に相談。県内各地から10人以上が集まった。その日を機に県出身者のつながりが生まれ、県人会の発足につながる。

 98年に福島を離れ、愛知や広島の大学を経て、2008年に琉球大大学院の教授に。沖縄に戻った後も、家族旅行などでたびたび福島に足を運んだ。

 東日本大震災が起きた日は、長男の妻と孫2人が宮城県七ヶ浜町に行っており、一時連絡が取れなくなった。発生3日目に無事が確認でき、胸をなでおろした。だが、東京電力第1原発事故の発生で「第二の故郷」は苦境に立たされる。

 あまりの状況に、福島在住者に連絡を取るのもはばかられた。無事の知らせに安堵(あんど)する一方、原発周辺の地域に暮らす人たちが避難を余儀なくされる様子に心を痛めた。

 13年に仕事も兼ねて福島市を訪れた際、かつて住んでいた地域にも足を伸ばした。近所の人たちは懐かしみ、笑顔で迎えてくれた。ただ、除染で出た土が入った黒い袋が庭先に積まれているのが目についた。「渡名喜さんは早めに福島を離れていて良かったね」。近所の人が漏らした言葉に、胸が締め付けられた。

 沖縄から福島を見つめ、両県は共通する面が多いと感じている。「米軍基地と原発という違いはあれど、国策に翻弄(ほんろう)され、地域が分断されてきたという意味では重なる」と指摘する。「分断に屈せず、将来に希望を持ち、多様な価値観を認め合って協働していくべきだ」

 福島大時代の教え子たちは東北6県におり、復興に関わる人も少なくない。「近況を聞くとうれしく思う」と目を細める。原発の廃炉作業や汚染水対策など、福島の復興は道半ばだが、これからも見守っていく。
 (前森智香子)

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