10年で街並みは変わった…でも消えぬ津波の不安<刻む10年 沖縄から、被災地から>10


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被災を逃れた沖縄料理店「宮古島」で当時について語る永井勲さん=9日、福島県いわき市

 福島県いわき市の海の玄関口、小名浜(おなはま)港。震災直後は、がれきに埋もれ、打ち上げられた船や横転したコンテナがあちこちに横たわっていた。その港から500メートルほど離れた場所に、永井勲さん(71)=旧姓・根間、宮古島市出身=は妻の政江さん(64)と沖縄料理店「宮古島」を営む。

 10年前のあの日、2人で自宅にいた。「ドン」と突き上げるような揺れに襲われ、とっさに外に出た。電柱が大きく揺れ、庭石が弾み、屋根瓦が雨のように落ちてきた。近くの工場から煙が立ち上っていた。この世の終わりに思えた。

 テレビには東北の沿岸部を襲う大津波の映像が繰り返し映し出され、恐怖心が募った。混乱に拍車を掛けたのが、東京電力福島第1原発での水素爆発だった。「高いところに逃げよう」。車で向かうが、どこも渋滞で容易ではなかった。

 5日ほどで、避難所から帰宅した。市が40歳未満の市民に安定ヨウ素剤を配布したが、2人は対象外だった。放射線の情報が入らず、不安にかき立てられた。「何を信じていいのか分からなかった」

 圧死の要因になると、タンスをすべて処分した。放射線に汚染された自宅を除染し、庭の土も全部入れ替えた。5年間、福島産の米や野菜は食べられなかった。いまも見えない放射線への恐怖は消えない。

 市内は8メートルを超える津波に襲われ、関連死を含め468人が亡くなったが、この10年、店の周囲の街並みは驚くほど変わった。港のそばには、地震や津波の際の避難先にもなる、4階建てのショッピングモールが新たにオープンした。

 だが「東北の湘南」と呼ばれ、観光客も訪れていた、かつてのにぎわいは戻ってこない。支援に訪れた自治体職員や原発作業員などでにぎわいをみせた「震災バブル」(永井さん)も去った。新型コロナウイルスの感染拡大が店の経営に追い打ちを掛ける。客が2人だけという週もあり、1月の売り上げは9千円ほどにしかならなかった。

 震災が話題に上ることも、ほとんどなくなったという。しかし海辺に行けば、いま地震が起こって津波が来たらどう逃げようか、崖が崩れてきたらと、自然と頭を巡らせ、胸がどきどきする。「震災前は、大地震が起きて福島第1原発が爆発するなんて、想像すらしていなかった。いまは何が起こってもおかしくないと思える。明日はわが身。ぜひ地震に備えてほしい」。福島から故郷、沖縄の人たちに強く訴えた。
 (問山栄恵)