人と話す時は、口元に目を凝らし、形から発言を読み取る。県の職員として働く比嘉真弓さん(55)=那覇市=は生まれた時から音がほとんど聞こえない。「口話」と呼ばれる、この技術を習得し、会話に問題はない。だが、小学生の頃には難聴が原因でいじめられた。周りと違う自分に悩んだが、中学時代の漢那義一教諭(享年77歳)との出会いが自分を変えた。「一生懸命に生きなさい」。恩師の言葉が今も背中を押してくれる。
1964年から65年にかけて県内では風疹が流行した。妊娠初期に感染すると、耳などに障がいがある先天性風疹症候群(CRS)の子どもが生まれる可能性が高くなる。65年に生まれた比嘉さんは2歳の頃、音への反応が鈍いと感じた母、平良京子さん(85)に連れられ、検査を受けた。母は妊娠5カ月の時、風疹に感染していた。
おもちゃのラッパや太鼓を医者が鳴らし、聞こえたら手を挙げる。おぼろげに覚えているが、楽器の音は聞こえなかった。難聴と診断され、当時、那覇市首里にあった沖縄ろう学校に通うことになった。
「母は私を普通の子のように育てたかったのでしょう」。母の熱心な指導が始まり、朝から晩まで言葉を学び、発声訓練をした。ミルクという言葉を覚えさせるため、どんなに泣き叫んでも、「ミルク」と言うまでは与えてくれなかったこともある。幼い比嘉さんにとっては厳しい日々だったが、あの時がなければ「話せるようにならなかった」と感じている。
71年には地域の普通幼稚園に進級し、補聴器を着けながら遊んだ。「この頃は同級生も私のことを不思議がることはなかった」。楽しかった記憶が残っている。小学校に入学し3年生になると、いじめが始まった。思い当たるのは、教員の声が聞き取れず授業を止めたり、同級生と遊ぶ時、ルールの確認に時間をかけたりしたことだ。一生懸命向き合おうとした結果「わずらわしさを感じさせてしまったのかな」。
中学校へ入学後も不安は消えなかったが、ハンドボール部での漢那教諭との出会いが、下を向いていた比嘉さんを変えた。
漢那教諭は比嘉さんと他の部員を区別なく指導した。部活後は日誌を提出するのが日課だったが、誤字脱字をくまなく修正されたのを覚えている。難聴の比嘉さんにとって言葉を覚えることは簡単ではない。うまく聞き取れず、単語を誤って覚えることもよくあったが、漢那教諭の指導で適切な言葉を学んだ。
比嘉さんがメンバーに加わったことで、部員間のアイコンタクトが増えた。難聴の比嘉さんがプレーしやすいよう、チームメートは視線でボールの位置や攻撃のタイミングを知らせた。3年生の時には九州大会の遠征メンバーとして宮崎県にも行った。補欠だったが「先生は私に仲間の大切さを学んでほしかったのだと思います」。
卒業式の日、チームメートの前で漢那教諭から「真弓さんのおかげでチームが一丸になれた。難聴をものともせず頑張っていた。これからも一生懸命に生きなさい」と言葉を贈られた。この時から比嘉さんは教師を志した。
(名嘉一心)
【関連するニュース】
▼「何言ってるのか分からなくて…」 聴覚障がい者にとってのコロナ禍