「海が自分の居場所」震災1年後の実習が転機に 岩手で船舶職員・松原さん<15の春>4


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「子どもたちが船の仕事に興味を持ってくれたらうれしい」と話す松原佑樹さん=3月、岩手県宮古市の藤原埠頭

 東日本大震災の津波と火災で壊滅的な被害を受けた岩手県山田町。松原佑樹さん(25)=山田町=は、船舶職員として1年の半分を海の上で過ごす。「海が自分の居場所なんだと思う」。厳しい自然の中で安全な航海を支える仕事に誇りを持つ。人々のなりわいを支える海は切っても切り離せない生活の一部。エメラルドグリーンの海が広がる荒神海水浴場は、佑樹さんの思い出の場所の一つだ。だが海は突然、生まれ育った山田の町を襲い、人々の命や財産を奪った。

 地元で暮らしながら海に関わる仕事をしている同期生がいると聞いた。震災で津波を経験しても海を怖いと思わないのだろうか―。当時の経験や今の仕事を選択するまでの歩みを尋ねるため、沖縄にいる私は、同期生を介して佑樹さんと知り合った。

「ああ、生きてた」

 2011年3月11日は、佑樹さんが通う中学校の卒業式前日だった。待機した体育館の外から聞こえる津波の音ややまない余震に、生徒らは大きな不安を抱えた。教師もいつもと違う険しい表情だった。おしゃべりな性格でムードメーカーだった佑樹さん。「このままだとみんながおかしくなってしまう」。その場に漂う不穏な空気を読み、気丈に振る舞った。「春休み何する? 高校が離れても休みの日に会えたらいいね」。いつものようにくだらない話をしているつもりだが、笑えていなかった。翌日、家族と再会。「ああ、生きてた」と涙をこらえながら無事を喜んだ。

 佑樹さんの話を聞きながら、同じ場所にいたら私はどうしていただろうと想像する。周囲の様子を察して、友達の平常を保とうと励ました佑樹さんの行動は、なかなかまねできるものではない。

 4月から隣の宮古市にある高校に通う予定だったが、父と母がそれぞれ経営する店が被災。通学で使う線路も不通になった。「このまま高校に行っていいのかな…」。中卒で働く選択肢も頭をよぎった。15歳の心が揺れる。だが母は「気にせず行け」と佑樹さんの背中を押した。

初めて航海実習に参加した高校2年の頃の松原さん。この時期に船乗りになろうと決意した

転機になった実習

 予定よりも数週間遅れで宮古水産高校に入学。がれきが残る道をバスで通った。制服はいとこのお下がりがあったが、あえて中学の制服を着た。「制服の準備ができていると言えない状況だった」。専門科目を学べるところに魅力を感じ、高校では海洋技術科で船舶などのエンジンに関する知識を学んだ。最初から船の仕事に就きたいと思っていたわけではなかった。

 高校2年の時、県共同実習船りあす丸で約2カ月の航海実習に参加。航海技術を学びながら、マグロはえ縄漁の実習をした。最初は慣れない生活に帰りたくなった。だが、迫力あるマグロ漁に感動したり、途中ハワイのホノルルに寄港し息抜きを楽しんだりと、次第に充実感を得ていった。何より、船の心臓部として動く実物のエンジンに触れ「将来は船に乗りたい」という気持ちが固まった。

 震災の翌年に実習に出た佑樹さん。海は怖くなかったのかと私が聞くと「うーん」と考え込んだ。「海がどうかより、また津波が町を襲ったらと考えるほうが怖かった」

航海実習中に取ったマグロ

後輩育てたい

 あの日から10年。佑樹さんは母校でりあす丸操機手として実習生の指導に当たる。地元の復興を見ながら働きたい気持ちもあった。

 16年には熊本地震の被災者支援のため、熊本県の水産高校の実習船に支援物資を引き渡した。「災害が起こって道路状況が悪くても船があれば物資を届けられる。船ってすごいよ」

 今年も実習生を乗せて約2カ月の航海に出た。年々、漁業や水産業に就く生徒が減ってきているという。

 今回は新型コロナの影響でどこにも上陸できず、いつもとは違う実習になった。進路に迷いながら実習船に乗り込む生徒もいる。船での生活ができるだけ楽しくなるよう、積極的に声を掛けた。震災当時と変わらない、気取らない人柄で周囲を和ませる。「実習で少しでも船の仕事に魅力を感じてもらえたら」。今日も将来の船乗りにエールを送る。
 (関口琴乃)


<記者のメモ>

私のふるさとの宮古市を襲った津波の映像を見た時、堤防を越えて地面をはうように広がる黒い波は、生き物のようだと思った。何度見ても「誰か止めて」と願ってしまう。荒れた海を見ると怖いと思うようになった。佑樹さんは、海ではなく津波が怖いのだという。人々の暮らしを支える海。奪うだけの海では決してないということを、改めて教えられた気がした。