認めたくなかった母の死 火葬後に実感「もう会えない」 岩手出身記者が同級生に聞く<15の春>5


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
橋本北斗さん=2021年3月(警視庁提供)

 私が岩手県宮古市で東日本大震災を経験してから10年がたつ。その間ずっと、気に掛かっていた中学の同期生がいる。橋本北斗さん(25)=宮古市出身、東京都在住=だ。野球部のキャプテンや応援団長を務め、仲間の中心的存在だった。中学卒業後は同県盛岡市にある野球の強豪校に進学が決まっていた。新生活に期待を膨らませていた2011年3月。東日本大震災の津波で母真弓美さん=当時(45)=を亡くした。

 現在、北斗さんは新宿警察署の留置管理課に勤務している。私と北斗さんは別のクラスだったため、在校中も卒業後も話す機会はほとんどなかった。北斗さんと仲の良い友人たちも震災の話をしたことがないという。記憶に踏み込んでもよいのだろうか―。迷いはあったが、共通の友人を介して取材を申し込むと「中学の同期生と10年ぶりに再会したわけだから」と了承してくれた。警視庁広報課を通じて、文書での取材となった。

 

 母はどこに

 北斗さんが地震に遭ったのは放課後の時間帯で、学校の外で友達と談笑している時だった。ゴロゴロと大きな地鳴りが聞こえ、地面が揺れた。夜に高台にある自宅に戻り、父と2人の兄の無事を確認した。「母はどこかの避難所にいるだろう」。そう思った。だが、待っても待っても母は帰って来ない。「まさかな」。最悪の事態が頭をよぎる。

 母は介護福祉士だった。職場の人も母と連絡が取れていなかった。「母のことだから利用者のことが心配になったのでは―」。母が訪問したとされる利用者の住所を聞き、兄と探しに行った。

 オイルを含んだ波が流れ込んだ町は、辺り一帯が油臭かった。壊滅状態の家に入ると、男性の遺体が横たわっていた。だがその日、母は見つけられなかった。

 思い当たる場所を探し尽くしてもまだ見つからない。精神状態は相当参っていた。「早く帰ってこないかな」と母の帰りを待っていたが、時間がたつにつれて「生きていればそれで良い」と思うようになった。最後は「ただただ見つかってほしい」。そう願った。

真弓美さんの遺体が見つかった地域=2011年3月、岩手県宮古市(いわて震災津波アーカイブ、一般社団法人宮古観光文化交流協会提供)

 

 横たわる母の遺体

 再び、母が仕事で訪れた家へ行った。すると兄が見覚えのある靴を見つけた。母の靴だった。父と兄と一緒に、倒れた家具をひっくり返しながら家の隅まで探し続けた。

 「いた!見つけた!」。父の声がする方へ行くと、髪で顔が隠れた母らしき人がいた。「もしかしたら知らない人かもしれない」。顔を見るのが怖かった。父がその人の髪をよける。初めて見た父が泣く姿。取り乱す兄。「なぜ母親でもない遺体を見て泣いてるんだ」。見た目では母だと分かった。だが、目の前に横たわる人が自分の母だと認めたくなかった。恐る恐る触れた顔は、冷たかった。

 北斗さんが母の死を実感したのは火葬の後だった。骨になった母を見た。「生きていた頃の母には一生会えない、一生話せない。そう思うと、自分の中で何かがプツンと切れた気がした」。その時初めて涙があふれた。

<記者のメモ>
 震災から数日後、私は町の被害状況や知人の安否情報を見聞きするようになった。その中で北斗さんの母真弓美さんが亡くなったことを知った。面識はなかったが、衝撃で言葉が出なかった。吹奏楽部に所属していた私は、部活で野球の応援に行った。北斗さんの野球生活を熱心に応援していた真弓美さんの姿を覚えている。真弓美さんを慕っていた野球部員や生徒は多かった。死の事実はそれぞれの心に重くのしかかっただろうと想像する。
 (関口琴乃)