「復帰」とは何だったのか 自治権巡る為政者の言葉で振り返る


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 沖縄戦で占領され、長く米施政下にあった沖縄が日本へ復帰してから49年。復帰とは、米軍支配からの脱却を目指し、住民の自治権を求める過程という側面もあった。復帰後、経済的には発展したが、過重な基地負担は残り続けていることから、今も地方自治や民主主義の在り方が問われている。米軍統治から米国民政府、復帰、現在にわたる自治を巡る歴史を、沖縄のリーダーと米国の関係者らの声を交えて紹介する。

 1945年4月、沖縄本島に上陸した米軍はニミッツ布告を発し、南西諸島を米海軍軍政府の管轄下に置くことを宣言した。以来、72年5月15日まで約27年間、沖縄は米国統治下に置かれた。

 日本は51年、サンフランシスコ平和条約(対日講和条約)を48カ国と結び、国際社会に復帰した。だが南西諸島と小笠原諸島は日本本土から切り離された。米国は沖縄を防共のとりでとして恒久的な軍事拠点にすることを望んだからだ。

 沖縄の住民は米軍の強制的な土地の接収や度重なる事件・事故に不満を抱き、自治権の拡大や日本への復帰を目指してきた。46年に発足した沖縄民政府は知事も議会議員も軍政府の任命制だった。

 軍政府を廃し米国民政府が設立された50年には、沖縄本島と宮古、八重山、奄美の四つの地域に群島政府が創設され、知事と議会議員が公選で選ばれた。

 だが本島を管轄する沖縄群島政府の平良辰雄知事が日本への復帰運動を展開したことに加え、群島政府を束ねる中央政府の創設に先立って実施された立法院議員選挙で復帰促進派が多数を占めると、米軍は危機感を強めた。連邦制度的な群島政府は廃止され、52年の琉球政府創設と同時に公選知事を選ぶという住民との約束をほごにされ、行政主席が任命された。

 琉球政府は建前上、住民の自治政府という形式だったが、実際の権限は米国民政府が握っていた。米国は57年、民政府の長に高等弁務官を置いた。公務員の任命権や法令の制定権まで有するなど絶大な権力を有した。

 米国民政府の圧政下で住民は次第に、平和憲法を持つ日本への復帰を希求した。60年に「沖縄祖国復帰協議会」が結成されて以後、復帰への機運が高まった。68年、琉球政府の行政主席を県民自らで決める直接選挙がついに実現する。復帰運動のリーダーだった屋良朝苗氏が、初の公選主席に選ばれた。

 住民の自治権を求める声が強まる中で、米国は安定的な基地の運用を狙い、日本は大規模な大衆運動に発展させないため、施政権の返還を模索し始めた。

 佐藤栄作首相は69年にニクソン米大統領と会談し、72年の復帰で合意したと宣言した。しかし、沖縄住民が望んだ基地の「即時・無条件・全面返還」はかなわず、いまだ広大な基地は残り続ける。

 復帰後は、本土との経済格差是正のための特別措置が現在まで続く。この50年間で社会インフラは整い、沖縄が有する自然や文化、温暖な気候は人々を引きつけ、国内有数の観光地に発展した。全国から沖縄へ向けられるまなざしも変化し、移住者も増えている。