島うた継承、巨匠たちの潤滑油 先人の偉業を歌い継ぐ 島袋辰也<新・島唄を歩く>


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歌三線への思いなどを語る島袋辰也=4月、沖縄市((C)K.KUNISHI)

 近代の沖縄民謡=島うたは大衆音楽として歩んで来た。1910年代の日本におけるレコード産業黎明(れいめい)期においても、すでに沖縄音楽はレコードとして記録され、庶民の耳に触れてきた。

 1916年(大正5年)に録音された富原盛勇「宮古(みやこ)の子(ね)(ナショナルレコード)」いわゆる「トゥンバルナークニー」を聴くと、すでに遊び歌としての民謡が庶民の間で広く歌われていたことが分かる。富原に影響を受けた普久原朝喜は後にマルフクレコードを設立し、沖縄音楽は普及発展して行くのであるが、戦前戦後を通じていろいろなスーパーヒーローも登場した。

 そんな先人をリスペクトし、その偉業を未来へ歌い継ごうと奔走し、自らも三線を奏でる歌手がいる。島袋辰也だ。

 小浜 生まれは?

 島袋 1981年、沖縄市泡瀬です。

 小浜 生粋の泡瀬?

 島袋 父方は安慶名で、母方が泡瀬、元々は那覇からの分かれらしいけど、旧姓が富原。屋号がアーシトゥンバルグワー(泡瀬富原小)と言うんですよ。

 屋号を熱唱

 泡瀬(アーシ)は中城湾に突出する小半島。海岸低地に発達した砂地からなり、南西に広がる干潟は、県下有数の塩田地帯であった。1972年、日本復帰にともない塩専売法の適用を受け製塩は停止された。

 2008年、島袋辰也は生まれ育った泡瀬をつづった「アーシベイストリート」(名嘉常安作)を歌い「第19回新唄大賞」(ラジオ沖縄主催)のグランプリを獲得している。その歌で、かの「富原ナークニー」を連想させる跳ねるような爪弾きで、♪我んねーアーシトゥンバル小、と自らの屋号を熱唱している。

 小浜 泡瀬では行事へも参加した?

 島袋 エイサーの地謡を16歳からやっていたくらい。

 小浜 三線はいつ頃から始めた?

 島袋 母が民謡好きで車の中ではいつも民謡が流れていた。中学の頃ちょっと不良してて、高校は行かずに建設業の現場仕事してた。雨が降ると休みで、三線テンテンしてたら、母の紹介で名嘉常安さんの民謡クラブで働くようになった。皿洗い、配膳、片付けしながら一日一曲歌わせてもらっていた。

 名嘉常安は伊是名島出身の歌い手で、三線、ギター、キーボード、太鼓と一人で何でも自由に演奏する天才的な演者。ファミリーユニットの「とこなつバンド」を率い、現在はヤマトでライブ活動を続けている。島袋辰也は名嘉常安に弟子入りし、バンドの一員として三線修業に精進した。

 小浜 民謡で食べていこうと?

 島袋 何となく続けて行くうちにレパートリーが増えて、マスコミに紹介されたりしてやめられないなあと。

 

ライブで歌三線を披露する島袋辰也=2018年、沖縄市のミュージックタウン音市場((C)K.KUNISHI)

 運命的な出会い

 辰也は舞台に立って歌い、お客さんから褒められることが一番気持ち良かった。それでもリクエストに応えられなくて「できなかったら降りとけ」と言われた時は本当に悔しかった。すぐにその曲の収録されたCDを買ってきて、翌日には弾けるように猛練習した。

 そんな頃だった。よなは徹や松田一利等の新進気鋭の若手歌手が店に来て「お前これ弾けるか」と、一緒にセッション演奏する機会が度々。彼らの演奏力に感服しながらも、追いつこうと稽古する自分に楽しみを感じ、続けられたと辰也はうれしそうに笑った。

 小浜 それで独立?

 島袋 自分も独り立ちしたいと師匠に相談した。「気持ちは分かる」と言われて一人で活動を始めたんです。

 辰也は母の店でバイトしながら、リゾートホテルで三線弾いたり、民謡クラブで助っ人したりした。キャンパスレコードの備瀬善勝からCDの誘いを受けたのもその頃。ファーストアルバム「飛~トゥヌギ」をリリースし、ライブ活動も精力的にこなした。

 小浜 それから知名定男さんのところに?

 島袋 はい。母の店に来て、僕を預かりたいと。

 小浜 運命的ですね。

 島袋 先生の元での稽古では、基本がいかに大事かを教え込まれた。

 真ん中の世代

 辰也はこれまでを振り返り、いわゆる普通の人のように高校、大学、就職と歩んでいたら、このような出会いはなかった、何となく良い方向に導かれていたのではないかと、最近強く感じている、と腕を組んだ。

 小浜 民謡の巨星達を取り上げたコンサート「島唄継承」のプロデュース、大変?

 島袋 大変ですけど、よなは徹さん世代と仲宗根創世代の真ん中に僕が居て、角が立たないんです。何よりも定男先生のバックアップがあっていろいろな方面と折衝できるんです。

 コロナ禍にあって「島唄継承」も延期を余儀なくされている。早く前へ進んで何年でも、「僕が60歳くらいまでは継続していきたいです」と最後に力強く語った。

(小浜司・島唄解説人)


飛躍への思い込め

トゥヌギ!トゥヌガ! 作詞・上原直彦 作曲・松田一利

三絃小や 我ぁたまし

歌乗しーしぇ 汝たまし

太鼓小や マチャーよ! 打っちはねーかしよー

トゥヌギヨー! トゥヌガヤー!

ヤッチー小が 言たしがよ遊ばりる内 遊びよや

刀自・子持ちねぇ 手足組んだりさ

トゥヌギヨー! トゥヌガヤー!

 ~二節略~

 トントンミー モーサー小汝ん寄るてぃ来ぅ ぐーなり

夜ながた明きがた 歌遊び

トゥヌギヨー! トゥヌガヤー!

 

~~肝誇(ちむぶく)いうた~~

 島袋辰也によると、本来、松田一利のために作詞されたもので、彼のアルバム収録に間に合わなくて「いい曲だからお前歌え」と言われてレコーディングしたのが、この「トゥヌギ!トゥヌガ!」という曲だという。「トゥヌギ!トゥヌガ!」最初この言葉、何だろうと思い、「トゥヌジュン=跳ねる」と知り、今度は言葉の響きが気に入って、ファーストアルバムのタイトルも、自身の飛躍の意味も込めて「飛~トゥヌギ~」(キャンパス、2008)とした。内容は確かに一利さんの事だと思いながらも、すごくいい曲なので大好きで歌っているという。

 「トゥブン」は単に「飛ぶ」の意で、「跳ねて飛ぶ」とか「ふっ飛ぶ」という表現では「トゥヌジュン」を用いる。「トゥヌギ」は命令形で「飛べ」。「トゥヌガ」は志向形で、「跳ねよう」となる。「トゥヌギヨー、トゥヌガヤー」は、歌も遊びも若いうちだよ「飛び跳ねて踊ろうよ」と檄(げき)を飛ばす。「飛ぶ」+「踊る」=「トゥンモーユン」は飛び上がって驚くさまをいい、「トゥンモーイモーイ」となると、踊り上がって喜ぶさまをいう。