「10・10空襲」本部町も被害 渡久地昇永さん(6)<読者と刻む沖縄戦>


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10・10空襲で撃沈された「迅鯨」の鎮魂碑

 1944年の「10・10空襲」は本部町も攻撃目標となりました。「よく覚えています。この日の朝、いつものようにイモの弁当と鍬を持って、真部山の陣地構築に向かいました」と渡久地昇永さん(90)=本部町=は振り返ります。

 朝8時前に伊野波の家を出ると飛行機の爆音が聞こえてきました。翼には日の丸ではなく星印。「おかしいな」と思っていると、砲撃音や機銃掃射の音が聞こえてきました。

 《しばらく路傍で眺めていると星印の飛行機が4機、爆音をとどろかせて低空飛行をしながら渡久地の方に機銃掃射を浴びせ始めた。「ああ大変だ」。僕は急いで民家の屋敷林の中へ身を隠して、事態の推移を見守っていた。》

 その後、叔父らと掘っていた竪穴の防空壕に移動し、家族と合流しました。渡久地集落の7、8割が焼失し、家を失った住民が伊野波など山手に避難してきました。瀬底島沖に停泊していた日本軍の潜水母艦・迅鯨(じんげい)も沈められました。

 《敵機の思うがままの空襲に対し、友軍が応戦できなかった。無敵を誇る日本軍を信じていた僕たちに大きなショックを与えた。》

 空襲後、家族は並里と伊豆味の境に横穴の防空壕を新たに築きました。母は食糧確保に追われます。