朝鮮人「慰安婦」と出会う 照屋次央さん 山の戦争(24)<読者と刻む沖縄戦>


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宇土部隊の本部が置かれた伊豆味国民学校(現伊豆味小中学校)の周辺

 照屋次央(つぐひさ)さん(85)=浦添市=の家族が避難場所を求めて山を下っていくと、日本軍の独立混成第44旅団第2歩兵隊(国頭支隊、通称宇土部隊)が残した壕や住民が避難している亀甲墓のある広場にたどり着きました。

 照屋さん家族も壕に入ります。そこで「慰安婦」として日本兵の相手をさせられていた朝鮮人の女性と出会います。女性は日本語を話したといいます。

 《朝鮮出身の女性は私たちグループの子を世話したりして大変かわいがってくれた。平素は部隊によって意に反して働かされ、酷使され、逆境の中で苦しんできたはずだが、大変温厚で篤実な方だった。壕で私たちと同居し、親しくなった。

 雑談の中での話だが、その方は17歳の時に朝鮮の浜辺で日本の紡績工場で就職させると日本人に誘われ、着いたところが日本軍の慰安所だった。慰安所ではその日から日本兵の慰安をするよう命じられ、毎日将兵が列をなした。苦しくて脱走すると拷問が待ち受けていた。》

 女性は妊娠し、中絶を迫られたといいます。その後、宇土部隊が本部を置く本部町伊豆味にある慰安所に送られました。

 壕で合流した女性はしばらく照屋さんらと共に過ごします。「その後、どうなったのか分かりません。名前も知らない。生きているだろうか」と照屋さんは話します。