夕食の芋を病院壕に供出 中村吉子さんの体験 母の戦争(8)<読者と刻む沖縄戦>


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第24師団第1野戦病院の新城分院が置かれた壕の入り口

 中村吉子さんが暮らしていた玉城村(現南城市玉城)前川に日本軍の第9師団(武部隊)が駐屯を始めたのは1944年夏です。年末に第9師団が台湾に転出した後、第62師団(石部隊)、第32軍(球部隊)が駐屯します。

 日本軍は前川住民を動員し、陣地構築を進めました。兵舎として民家も徴用します。45年4月1日、本島中部西海岸に上陸した米軍と日本軍との戦闘は南部に迫っていきます。

 5月頃の吉子さんの体験を息子の中村陽一さん(67)=西原町=は記しています。

 《昭和20年5月初め頃でしょうか。自分たち家族の食事として畑から芋を収穫して帰ると、おばあさんが「今掘ってきた芋は山部隊(第24師団)の病院壕に持って行け」と言う。聞くと区長さんからのお達しで、山部隊から村に食料供出の依頼が来ているとのことだ。

 一瞬、腹立たしい思いはあったが、友軍のためならと、収穫したその足でそのまま山部隊の病院壕へ直行して、自分たちの一日分の食料を供出した。貧しい生活だったので蓄えはない。おかげでその晩は、晩食抜きだったそうだ。》

 病院壕とは、前川集落から約1・3キロ南にある八重瀬町新城のヌヌマチガマとガラビガマのことです。45年4月下旬から6月上旬まで第24師団の第1野戦病院の新城分院が置かれました。県立第二高等女学校の生徒でつくる「白梅学徒隊」の5人もこの壕で看護業務に従事しています。