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「ソーキそば」生みの親、92歳の今も現役 我部祖河食堂の金城さん 「おいしかったよ」聞きたくて


この記事を書いた人 Avatar photo 松堂 秀樹
「おいしかったと言われるのが一番うれしい」と今も厨房に立つ我部祖河食堂の創業者、金城源治さん=9月29日、名護市我部祖河

 10月17日は「沖縄そばの日」。創業55年を迎えた名護市我部祖河の沖縄そば店「我部祖河食堂本店」の厨房(ちゅうぼう)に立つのは創業者の金城源治さん(92)だ。脱サラし、生まれ育った我部祖河で精肉鮮魚店とまちやぐゎー(雑貨店)を営んでいたところ、売れ残ったソーキを活用するため発案したのが「ソーキそば」だった。フードロス(食品廃棄)の削減のためのアイデア商品は「元祖ソーキそばの店」の看板商品として県内外に多くのファンを持つ。

 「『おいしかったよ』と言われたときが何よりうれしい」。定休日の月曜日を除き、午前10時から午後3時頃まで毎日厨房で自社製品の麺とじっくり煮込んだソーキを盛り付ける金城さんは元気はつらつだ。

 沖縄食糧を30歳で退職し、一念発起して生まれ育った我部祖河に所有していた田んぼを埋め立て、自宅兼店舗を構えた。「田んぼは当時、大きな財産。『なぜ埋めるんだ』と反対されたが、自分で商売をしたかった」と振り返る。

1966年の創業当時の我部祖河食堂の前で、アメリカ製の自家用車と写真に収まる金城源治さん(本人提供)

 立ち上げた精肉鮮魚店での悩みは売れ残りだった。廃棄していたソーキをなんとかできないかとそばに盛り付けて子どもたちに食べさせてみると好評だった。地域住民や地元の稲田小学校の牧志朝三郎校長(当時)などの助言もあり、1966年に我部祖河食堂を始めた。

 当時の沖縄そばの具は、かまぼこや島豆腐などが一般的だった。高級食材だったソーキが乗った新メニューを25セントで販売し始めると、たちまち話題に。

 自家用車が珍しかった時代にアメリカ製の車も購入した。買い物袋を抱える客を乗せて家まで送り届けるなど地元密着型の経営を続けた。

 現在は沖縄市や那覇市など7店舗まで拡大し、3人の子どもや5人の孫たちが切り盛りしている。

 ソーキそばを開発し、我部祖河食堂の名を全国に広めるなど名護市の観光・産業振興に貢献したとして昨年、市から市政50周年記念市政功労者(産業功労)として表彰された。

 「私は子どもたちに任せてそろそろ引退したいんだけどね」と笑う妻文子さん(94)と共に店の常連客らをもてなす。金城さんは「お客で店がいっぱいになっているのを見たら元気になる。できる限り現役を続けたい」と笑顔を見せた。

(松堂秀樹)

 


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