沖縄県議会に糸満高校出身で同じ会派に属する2人の女性議員がいる。貧しく、苦しかった幼少期、沖縄の激動期をくぐった青春時代が2人の原点だ。
玉城ノブ子(75)は20期。母の介護に追われながら文学にあこがれる高校生だった。県議会9月定例会で「私はヤングケアラーだった」と明かした。
1946年、糸満市糸満で生まれた。父はサイパンの地上戦で左手を失った。母は敗戦直後の混乱期に密貿易に携わった。「母は『ホンコン商売をしていた』と話していた」と語る。
「働き詰めでほとんど家に帰らなかった」という母は、玉城が小学校高学年の時に倒れた。半身にまひが残る母を支えるヤングケアラーの日々が始まった。
「母のリハビリを助け、家族の食事を作った。女の子が母の面倒を見るのは当然で責任を持たなければならないという感じだった」
中学3年の時、再び母が倒れて寝たきりとなる。玉城の負担は増した。母は時々、夜中に引きつけを起こした。玉城はそのたびに自宅近くの病院に走ったが、医師が起きてくれず、病院前で泣いたこともある。毎日が睡眠不足だった。
介護に追われながらも進学への思いは強く、62年に糸満高校へ入学する。文学少女だった。「芥川龍之介や夏目漱石、石川啄木の本を図書館から借りて読んだ。文芸クラブに入り、部長にもなった」
幼い頃から多くの戦争体験者の話を聞いた。玉城の周辺には多くの戦争犠牲があり、遺族の嘆きがあった。沖縄戦の悲劇に触れる中で反戦平和の思いを深めた。
卒業後、沖縄大学に入学。「沖縄はこのままでいいのか」という思いを募らせ、復帰協主催の県民大会に足を運んだ。米兵事件による住民犠牲にも衝撃を受けた。復帰が迫るなか、沖縄人民党(73年に日本共産党と合流)へ入党し、政治の道を歩み出した。
糸満市議を経て県議4期目。反戦・平和の思いと母を支えた体験が玉城の原点だ。玉城が所属する紅短歌会の歌誌に歌を寄せた。
《「医師(せんせい)助けて下さい」真っ暗な夜道を走るヤングケアラー》
西銘純恵(70)は糸満高校の25期。「両親ときょうだい6人、極貧生活だった。それが私の原点だ」と語る。
1951年、糸満市糸満で生まれた。家業はクリーニング店。父は腕のいい職人だったが、暮らしは厳しかった。「高校に入学するまで14、5回引っ越した。仕事を探して移動したのだと思う。生活保護も受けていた」。西銘は両親を手伝い、配達や集金に励んだ。
糸満中学校3年生の時、初代公選主席となる屋良朝苗が会長を務めた「沖縄子どもを守る会」から善行表彰を受けた。依然として生活は厳しく、進学か、働こうか心が揺れたが、担任の励ましを受け、67年に糸満高校に入学する。
高校時代は復帰を前にした沖縄の激動期と重なる。68年11月のB52墜落に抗議する学内集会や県民大会に参加した。72年返還に合意した69年11月の日米共同宣言に対する憤りの声を教師から聞いた。
「国語教師が授業中、新聞を広げて『ここに書かれている本土復帰はごまかしだ。なぜ基地付き返還なんだ』と話していた。私たちもこのような島にしてはいけないと受け止めた」
70年、琉球大学に入学。女子寮に入り、アルバイトと奨学金で学費をまかなった。女子寮では寮の役員や寮長として活動した。「私は琉大女子寮学科の卒業」と冗談を交えて振り返る。
青年同士の交流は活発だった。琉大内の平和団体で活動し、71年には広島で開催された原水爆禁止世界大会に参加した。
卒業後、日本共産党県議団の事務局員に。「羅針盤」をそこに見つけて日本共産党に入党した。なぜ貧乏があるのか、なぜ沖縄は米軍基地に苦しめられるのかを学んでいった。
法律事務所に約20年勤務。浦添市議を経て、現在は県議4期目。子どもの貧困問題や福祉、平和を軸に活動してきた。
小さな部屋にきょうだい6人が川の字になって眠った幼いころを思い出す。貧困ゆえ進学したくても就職を余儀なくされた友人がいた。西銘は自身の原点に立ち返りながら政治の道を歩んでいる。
(文中敬称略)
(編集委員・小那覇安剛)
【糸満高校】
1946年1月 開校(16日)、首里分校設立(27日、3月に首里高校独立)
3月 真和志分校設立(9月に首里高校と合併)
5月 久米島分校設立(48年6月に久米島高校独立)
56年4月 定時制課程設置(74年に廃課程)
88年6月 県高校総合体育大会で男女総合優勝
2011年8月 野球部が夏の甲子園に初出場
15年3月 野球部が春の甲子園に初出場