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看板メニューに「JOTO」 米国と沖縄のチャンプルー、復帰前の「ジャッキーステーキハウス」<世替わりモノ語り>2


この記事を書いた人 Avatar photo 稲福 政俊
復帰前後は「JOTO TENDER LOIN STEAK」と表記されていた「テンダーロインステーキ」

 1953年創業の老舗ステーキ店「ジャッキーステーキハウス」(那覇市西)は復帰前後に使っていたメニュー表を大切に保管している。創業時は主に米兵を相手としたため、もちろん表記は英語。一番「上等」の肉は、その名も「JOTO TENDER LOIN STEAK」と、「JOTO」と冠したステーキ。地元客向けのフリガナも「ヂョートウ テンダー ローイン ステーキ」だ。復帰後にドルの値段を赤ペンで消し、日本円に直した跡もある。米国と沖縄と日本が入り交じる、まさにチャンプルーのメニュー表だ。

 創業者は鹿児島県喜界島出身の故・長田忠彦さん。親戚が嘉手納町で経営していた県内ステーキ店の草分け「ニューヨークレストラン」で働き、のれん分けで独立した。60年に那覇市辻に店を出し、2001年に現在の那覇市西に移転した。

英語と日本語が併記されたメニュー表

 長田さんは英語が得意で米国人の友人も多かった。店名の「ジャッキー」は、CID(米軍犯罪捜査部)の友人ジャクソンさんの愛称から取った。後に長田さん自身も「ジャッキーさん」と呼ばれ、サービス満点の人柄で親しまれた。

 長女の藤浪睦子さん(74)と三女の伊波よし子さん(67)は幼い頃から店を手伝ってきた。復帰前は米軍の営業許可証「Aサイン」を取得していたため、厳しい検査を受けたという。

 「食器は煮沸消毒しないといけないから、常に湯を沸かしていた」「食材を買う場所も決められていて、中城まで買いに行った」「ウエートレスの制服にも厳しくてナースみたいな格好をしていた。病院と間違えた子どもが泣いたこともある」など、メニュー表を見ながら復帰前の思い出話があふれる。

(稲福政俊)

>>米兵から地元、観光客へ…「ジャッキーステーキハウス」変わらない味と店員の人柄<世替わりモノ語り>へ続く


 2022年は復帰50年。復帰、海洋博、サミットなどの歴史的な出来事や、今はなき思い出の地、流行した歌や遊びなど、世替わりを経験した沖縄ならではの物語を、当時の品々(モノ)を通して紹介します。