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宜野座高校(6)21世紀枠で甲子園に旋風 「禅問答」が自信に 東肇さん、安富勇人さん<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
「21世紀枠」で出場した第73回大会で4強入りを決め、大喜びで応援席に向かう宜野座ナイン=2001年4月、甲子園

 2009年2月、宜野座村野球場。プロ野球阪神タイガースの春季キャンプ開会式で、当時の村長、東肇(74)は「リーグ優勝、日本一獲得に向けて頑張ってもらいたい」と選手にエールを送った。東は宜野座高校の21期。高校球児だった。

 1947年、村福山区で生まれた。野球の盛んな地で、東も小学生から野球を始めた。宜野座高校野球部の守備位置はファーストやライト。打順は3番や4番で、バットでチームを牽引(けんいん)した。「用具はそろっていたが、ボールはほつれた糸を縫って繰り返し使った」

 野球が盛んな村らしく、先輩たちがノックなどで練習を手伝ってくれた。強豪としのぎを削り、沖縄大会ベスト8の好成績を残す。

 71年に村役場に入ってからも社会人野球の選手として活躍する傍ら、宜野座高の野球部監督として82年から89年まで指導した。甲子園まであと一歩のところまで進んだが、出場権を獲得することはできなかった。

安富 勇人氏

 2001年1月、東ら野球部OBの夢がかなう。この年の第73回選抜高校野球で新設された「21世紀枠」に宜野座高校が選出され、村は全国から注目された。「最高の瞬間だった。この村に宜野座高校があって本当に良かった」。東は当時のことを振り返る。

 発表の日、宜野座高に報道陣が詰め掛けた。校長室に高野連から一本の電話が入った。

 「校長室から出てきた先生が腕いっぱいで『マル』のサインを自分たちがいた教室に送ってくれた。その後は授業どころじゃない騒ぎになった」。当時の主将で57期の安富勇人(38)は歴史的瞬間を回顧する。

 村漢那区出身。五つ上の兄の影響で学童野球チーム「漢那イーグルス」で未就学児の頃に球拾いを始めたのが野球との出合いだ。

 両親や兄、指導者の支援で野球に打ち込んだ。宜野座中では2年生の時に県大会で準優勝した。満を持して望んだ中学最後の大会だったが、北部地区予選で2回戦敗退に終わった。

 「悔しかった。『このメンバーで甲子園を目指そう』と誓った」。実力のあるメンバーが地元の宜野座高に進学した。

 監督は東江中を県大会制覇に導いた奥浜正。宜野座高で倫理を教えていた奥浜は、技術指導より「なぜそのプレーを選んだのか」と選手たちに考えさせることに重きを置いていた。

 「漫然としたプレーは監督に見抜かれる。言い逃れが許されない、禅問答のようなミーティングは苦しかった」。奥浜の指導の下で安富ら宜野座ナインはどんな舞台でもぶれずに自分たちの野球を貫く自信を身につけた。

 選抜大会の一般枠出場で重要な選考資料となる00年秋の九州大会はベスト8にとどまり、選出の当確ラインには届かなかった。諦めかけていた頃、21世紀枠での出場が決まった。村は大騒ぎになった。

 安富は中学の時に甲子園大会を観戦したことがあった。「あの夢舞台に立っているんだ」。選抜大会の入場時、感動で体が震えた。

 縦に大きく曲がる「宜野座カーブ」を武器に比嘉裕投手が好投。強豪の桐光学園(神奈川)や浪速(大阪)などを破りベスト4入り。宜野座高は全国にその名をとどろかせた。

 甲子園出場をきっかけに宜野座高には全国からファンが見学に訪れた。「気持ちが浮ついてしまった」と安富は笑う。ナインは「原点に戻ろう」と確認し合い、竹ざおでの素振りや守備練習などいつものメニューに集中。実力で夏の甲子園の切符をもぎ取った。

 「あいさつや身の回りのことに勉強。普段の自分がグラウンドで表現されるということを学んだ」。高校教師となった安富は野球で学んだ教訓を生徒たちに伝えている。

(文中敬称略)
(北部報道グループ長・松堂秀樹)


 【宜野座高校】

 1946年2月 祖慶、福山、古知屋、中川、久志、大浦崎の各校を統合し、現在地に宜野座高等学校として創立
  48年4月 6・3・3制実施、新制高校として出発
  60年4月 琉球政府立宜野座高校に移行
  72年5月 日本復帰により県立高校に移行
 2001年3月 21世紀枠で春の甲子園に出場、ベスト4。8月、夏の甲子園に出場
  03年3月 春の甲子園出場