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あの巨大な表札「沖縄県庁」設置は一大プロジェクトだった 石探しから運搬まで…携わった職員の思い<世替わりモノ語り>11


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県庁の表札作りに携わった当時を振り返る比嘉賀幸さん=2日、那覇市泉崎の県庁(大城直也撮影)

 県庁の正面玄関近くに「沖縄県庁」と刻まれた巨大な表札が来庁者を出迎える。高さ約1・5メートル、横幅約3メートル、厚さは約50センチある。「県庁の顔を作ろう」。日本復帰を契機に琉球政府総務局文書課が、新生沖縄県の表札設置に取り組み始めた。「これは大仕事になると思った」と制作に関わった当時同文書係長の比嘉賀幸さん(85)は振り返る。表札の石材探しと運搬は、これまでにないプロジェクトとなった。

 1971年に沖縄県庁表札制作審議会が立ち上がった。素材は長持ちする石に決まった。大きさは琉球政府があった第一庁舎を背景にしても負けないようにと高さ1・5メートル、横2・5メートルに決まったものの、比嘉さんらは「これだけの石をどこから持って来たらいいのか」と頭を抱えた。

 石を探すために文献を読み、関係者に話を聞いた。そんな中、久米島に丈夫で美しく大きい石があると知る。首里城の守礼門にも久米島の石が使われていると知った。

 審議会のメンバーらと石探しに久米島を訪れた。その石は旧仲里村島尻のスハラ原に、小高い丘の石と石の間にそびえ立っていた。大きさは審議会が出した基準を満たしていた。マグマが地上に噴出してできた火山岩の一種の「輝石安山岩(きせきあんざんがん)」だった。比嘉さんは「県庁の表札のために生まれてきた石だ」と胸を高ぶらせた。

 「10トンぐらいあったのではないか」。運搬にはてこずった。石を旧具志川村兼城港に運んだ後、久米商船の第3平和丸に積み込む作業が待っていた。しかし、船のウインチは3トンまでしか持ち揚げられなかった。旧仲里村に相談して米軍のウインチ付きのレッカー車を借りられた。

 実際に石を船に積むとなると、肝を冷やすことの連続だった。1度目はつり上げた石の角度が船の開口部に合わずに失敗。2度目は船の開口部と合ったものの、米軍から借りたレッカー車のワイヤーを支える油圧ピストンのゴムが切れて油が噴出。石が落下する危険性が増し、周りは固唾(かたず)をのんで見守った。

除幕式で披露される県庁表札=1972年5月15日(県公文書館所蔵)

 「祈るような気持ちだった。石が船に収まった時は緊張から解放され、安堵(あんど)した」

 その後、戦後沖縄を代表する書家・謝花雲石氏が揮毫(きごう)を担当。1972年5月15日午前8時50分、除幕式が行われた。

 表札の裏には「沖縄県庁表札の建立にあたり」と題して、文化や平和創造への決意をつづった碑文がある。県の工芸指導所長を務めるなど、比嘉さんは沖縄の伝統工芸品の継承に心を寄せてきた。「米軍基地が多く残っていることは気がかりだが、沖縄の伝統文化は多様性に富み、良い方向に進んでいる」。碑文に込められた思いと現在を見詰めている。

(狩俣悠喜)