激戦地の墓から住民遺品 壁に焼け跡、米軍攻撃か 高江洲さん西原町幸地で発見


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壁の上部が焼け焦げている掘り込み形式の墓の内部=18日、西原町幸地

 沖縄戦で日米両軍が激しい戦闘を繰り広げた浦添・西原地域には、沖縄戦から77年がたっても戦争の爪痕が残る。日本軍の陣地壕が数多くあった西原町幸地で遺骨収集を続ける高江洲善清さん(70)がこのほど、掘り込み形の古墓から住民の遺品を見つけた。中の壁は焼け焦げており、炭化した米や「外間」の印鑑、「与那嶺」と刻まれた定規などがあったという。

 高江洲さんは「避難していた住民が米軍の攻撃に巻き込まれたのではないか」と話し、思い当たる人がいれば名乗り出てほしいと呼び掛ける。

高江洲善清さん

 古墓はニービ(細粒砂岩)層を掘り抜いて造られている。高さ約2メートル、横約3メートルで中は棚が2段になっており、手前側にさらに掘り込んだ細い通路がある。高江洲さんは2017年に住民の遺品を掘り出した。ジーファー(かんざし)や大量の硬貨、裁縫用の線引きなどがあったという。日本軍の遺物はなかった。

 壁には、住民が描いたと思われる絵も残されていた。「武運長久」の文字の上に、日本軍のものとみられる戦車が刻まれていた。高江洲さんは「兵士として戦争に送り出した人の家族が、戦争から生きて帰ってほしいという思いで描いたのではないか」とみる。

墓の中から見つかったジーファー(かんざし)と裁縫用の線引き=18日、西原町幸地

 壕の出口には骨つぼが置かれていた。この地域では戦時中、多くの住民が骨つぼを出して墓に入っており、戦争中に住民がつぼを出して中に入ったとみられるという。

 墓の中では黄リン弾のふたも見つかり、米軍が投げ込んだとみられる。高江洲さんによると、黄リン弾は1200度以上の高温となり、遺骨も燃え尽きるほどだという。避難していた住民がここで亡くなった可能性もあるとみている。 (中村万里子)