社会

焼けただれた人々の姿「もう二度と…」沖縄から疎開、負傷者を救護した女性が振り返る広島原爆投下

「生かされているから、無駄な生き方をしてはいけない」と話す高良郁子さん=3日、那覇市

 77年前の8月6日。広島に原爆が投下された後、広島県内各地や近隣県に救護所が設けられ、被爆した負傷者が搬送された。爆心地の広島市から約100キロ離れた広島県北東部の比婆(ひば)郡(現庄原(しょうばら)市)の村々にも救護所が設けられ、同郡に疎開していた高良郁子さん(89)=那覇市、当時12歳=も原爆で傷ついた人々の救護を手伝った。「みんな皮膚がただれて、痛い痛いと苦しんでいた」と振り返る。記憶から消えることのない核兵器の恐ろしさは、胸に刻まれている。

 沖縄出身の両親の下、高良さんは大阪市大正区で生まれた。1944年末になると大阪の町にも米軍の爆撃機が現れ、焼夷(しょうい)弾を落とした。広島出身の隣人から「広島は安全だから一緒に避難しよう」と誘われ、母と妹、弟の4人で比婆郡に疎開した。

 疎開地は山深い農村で、牛小屋の2階にある物置が住まいだった。粗末な家だったが空襲におびえることのない生活に一家は胸をなで下ろしていた。

 穏やかな日々が一変したのは1945年8月6日。米軍が広島市に原爆を投下した。友人から「都会に大きい爆弾が落ちたらしい」という「うわさ」は聞いたが、詳細は分からなかった。

 数日後、高良さんが通う小学校に救護所が設置され、被爆した負傷者が教室に運び込まれた。地域住民が交代で負傷者の看護を手伝うことになり、高良さんも当番に加わった。「30人くらい床に寝かされていた。みんな皮膚が黒く焼けただれてズルッとむけていた。傷口はどろりとしていて言い表せないくらいひどい。背筋がゾッとした」と当時を振り返る。

 高良さんは食事の介助に当たった。全身にやけどを負った男性は口がゆがんで開かず、おかゆを食べさせるのに苦労したという。寝返りを打つと皮膚がこすれ、男性は「痛い痛い」「早く家に帰りたい」と繰り返した。そんな中、男性は高良さんに「トマトが食べたい」ともらした。

 近所の人からトマトを譲り受け、男性に届けた。「ほとんど動かない手のひらでトマトをころころ転がして、『食べたいな、食べたいな』と言って喜んでいた。気持ち分かるよね」

 高良さんは調理場の職員に、男性にトマトを食べさせてほしいと頼み、救護所を離れた。2日後に再訪すると、男性はいなくなっていた。生死は分からない。原爆で亡くなった人々の火葬が連日行われ、白い煙が立ち上り続けていた。寺には白い布に包まれた骨つぼが次々と運び込まれた。「あの人はトマトを食べることができただろうか」。77年間、高良さんは考え続けている。

 忘れられない戦争体験を通して、今を生きる人には「思いやりを持ってほしい」と願う。「思いやりを持てば人間同士、原爆を落とすことなんてできないでしょう。あんな大変なことは二度と嫌です」 (赤嶺玲子)



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