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スリッパが脱げるたび「ばれる」心凍る瞬間、何度も…ハンセン病元患者の男性が実名を明かし語った恐怖と願い 沖縄


この記事を書いた人 Avatar photo 佐野 真慈
「ハンセン病問題は終わっていない」と話す神谷正和さん=2日午後、沖縄県内(提供)

 「スリッパが怖いんだよ」。沖縄県内で暮らすハンセン病元患者の神谷正和さん(71)はぽつりとこぼした。15歳でハンセン病を発症して以来、56年間病歴を隠して生きてきた。後遺症で左足などにまひが残る。スリッパがうまく履けない。脱げても気付かないまま歩いて、周囲に指摘されるたびに「病歴がばれる」と心が凍り付いた。「日常にそんな場面がたくさんある。多くの仲間が同じ思いで暮らしている。ハンセン病問題解決のためなら」と、このほど報道機関に初めて実名を明かし思いを語った。

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 1966年、中学生の時、学校検診で感染が分かった。医師が神経まひを調べるために体をつつく針の光が脳裏に焼き付いている。高校受験を2カ月後に控え、愛楽園に入所した。

「園にお願いして受験だけはさせてもらった。合格したよ」。

 愛楽園内の検査で「らい菌」の反応がなくなり、数ヶ月で退所した。だが、高校在学中も左足のまひや後遺症の治療のために園に通わなければならなかった。「入院、手術もあって留年した。友人には病気のことは隠しているからバイク事故だとうそをついた」。

 足は手術後に変形が始まった。まひした状態で体重を掛けて歩くため、負担がかかる足の裏に穴が開く「うら傷(足底せん孔症)」も出た。  

 高校を卒業し、仕事に就いた。足に負担を与えないよう内勤を探したが外回りの営業が多かった。うら傷が悪化すると、愛楽園での入院治療のたびに休職した。入院先も会社に隠さなねばならず、居づらくなって転職を繰り返した。

「ずっと息を殺して、身を縮めて生きてきた」。

 後遺症の悪化を防ごうと、デスクワークができる仕事を目指し、医療事務の資格を取得した。働きながら夜間大学にも通って卒業した。

 必死に生きる中で病歴を明かせる女性と出会った。結婚し、子宝にも恵まれたが、長くは続かなかった。

 「妻の親や親族には病歴を隠し続けた。愛楽園への通院や入院のたびに周囲にもうそをつく。ハンセン病を隠すという行為が彼女の心を傷つけていったんだろう」と目を伏せた。  

 2人の息子には家族訴訟(2019年)をきっかけに病歴を明かした。「2人ともすっと受け入れてくれた。長い間、1人で頑張ってきたんだなと言ってくれた」。

 神谷さんは今、生まれ育ったまちで1人で暮らす。

 加齢と共に体のあちこちに異変や不調が出るようになった。後遺症の影響もあり、昨年からつえが手放せない。

 うら傷の治療に愛楽園にも通えず今夏、市の介護福祉制度に頼った。

 医師などによる介護認定調査を受けて「要支援2」と認定された。

 認定調査で、病歴や手術歴を書き込んだ自作の人体図を示しながら、初めて自分の口で病歴を明かし、支援を求めた。

 「もちろんハンセン病のことはカルテに書いてあるのだろうけれど、心のどこかで差別を恐れて言葉が震えていた」と明かす。

 「1人暮らしの仲間が病歴を明かせないことで治療を受けないまま倒れた例もある。根底には社会に拒絶され続けてきた心の傷がある。ハンセン病問題は終わっていないよ」。

 現在、介護認定調査の項目に後遺症などハンセン病に由来する項目はない。「制度の中に組み込まれたら元患者も安心して地域医療に頼れる。実現してほしい」と願った。

(佐野真慈)

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