「戦争で生き残ったからこそ…」 沖縄の看護教育に尽力 許田英子さんに助産師会の特別功労表彰 「看護教育は私のすくぶん(使命)」


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看護・助産師教育に情熱を注ぎ、日本助産師会の特別功労者表彰を受賞した許田英子さん(右)と、夫の盛睦さん=6月26日、宜野湾市内の自宅

 復帰前に「公看」と呼ばれていた公衆衛生看護婦(師)の育成に力を注ぎ県職員として38年、うち約26年は看護師・助産師教育に携わってきた元名桜大特任教授の許田英子さん(87)=宜野湾市=がこのほど、日本助産師会の特別功労者表彰を受賞した。1988年の日本助産師会県支部設立に携わり、県立看護大「別科助産専攻」開設に情熱を注いだ。戦後の看護教育の草分け的存在だ。

 昨年秋の叙勲で瑞宝双光章も受章した。4月に宜野湾市内で祝賀会が開かれ、教え子や元同僚らが祝福した。許田さんは「自分の土台になっているのは戦争で生き延びた体験。看護教育は使命(すくぶん)と考えている」と柔和な表情で語る。

 1935年生まれ。小学4年生だった10歳の頃、沖縄戦を体験した。宜野湾の普天間から家族と南へ逃げ、摩文仁へ追い詰められた。ガマの中で父が手榴弾(しゅりゅうだん)を手に一家自決しかないと思い立ったとき、許田さんは外へ飛び出した。思わず「死にたくなーい」と叫び、その声に父は踏みとどまった。一家は捕虜になり生き延びた。その後、父親はマラリアを患い大浦の収容所で亡くなった。許田さんは「沖縄戦で本当に悲惨な思いをした。生き残ったからこそ命の尊さを感じる」と語る。

 戦後、普天間で母のヨシさんが書店を営みながら三女の許田さんを含め、娘4人を育てた。看護の道に進んだきっかけは母の強い薦めだ。戦争で見た負傷者・死者の記憶も医療への道を歩むきっかけになった。

 戦後の沖縄は、島しょ県という地理的特性と相まって劣悪な公衆衛生上の問題を抱えていた。米国民政府(USCAR)が主導し、琉球政府と連携して看護体制が整えられていった。各市町村には住民の健康管理を担う公衆衛生看護婦(公看)が配置された。

コザ看護学校の宿舎で共に過ごした同級生たちと。前列右が許田英子さん

 許田さんは57年にコザ看護学校を卒業し、58年に琉球政府から公看の先進県である高知県の保健婦養成所に派遣された。担当町村を巡回しながら結核患者や小児疾患のある子どもの数を把握し、健康づくりの指標をつくった。養成所をへて日本国の保健婦免許を取得。その後、61年に東京の国立衛生学院で保健婦教師養成コースを修了した。 沖縄では医療保健を担う人材の育成が急務だった。許田さんは24歳で、琉球政府立公衆衛生看護学校で教べんを執った。63年から約2年、USCARから派遣され米国のニューメキシコカトリック助産婦学院で修学した。帰郷後、那覇・コザ看護学校で教員を経て86年にコザ看護学校初の女性校長に就任した。

 看護・保健師・助産師教育一筋に歩んできた許田さん。継続できたのは家事育児を分担してきた夫・盛睦(せいぼく)さんの支えが大きいという。

 「看護は対人サービス。相手のニーズを聞き取る姿勢が大事。さまざまな背景の教え子がいたが、管理者になっている人もいる。学生が自分を上回る存在になる。それが私の大きな役割」と目を細め、後進にエールを送った。

(高江洲洋子)