「辺野古劇場」かつての中心地に存在 映画や沖縄芝居…基地の街ではない辺野古の素顔


この記事を書いた人 Avatar photo 瀬底 正志郎

 琉球新報芸能面では、沖縄に存在した映画館を当時を知る人々の談話とともに紹介する連載「沖縄まぼろし映画館」(シネマラボ突貫小僧代表 平良竜次氏執筆、當間早志氏監修)を毎月第2金曜に掲載している。10月14日付の連載では、米軍普天間飛行場移設に伴う新基地建設に揺れる名護市辺野古にかつて存在した「辺野古劇場」について取り上げた。連載の同回を琉球新報デジタルでも掲載し、「基地の街」とは違う辺野古の素顔を紹介する。


 

辺野古劇場。後ろの高台は現在、沖縄高専が建っている(提供:辺野古写真編纂係)

 米軍の新基地建設に揺れる名護市辺野古。かつてここに存在した「辺野古劇場」の写真が辺野古公民館に保管されている。撮影日は1959年2月24日。

 「辺野古劇場」は、石川市(現在のうるま市)で「石川沖映館」を経営していた池原長昌が、基地建設に湧く辺野古で始めた映画館だ。「沖縄商工年鑑」59年版では「辺野古映画館」と表記されているが、経営者が池原から劇場を引き継いだ宮城安範となっていることから、「辺野古劇場」の誤表記だと思われる。開業は58年10月と記載されている。

 写真を見てみると、劇場に映画の横断幕がいくつも掲げられている。どれも松竹と大映の作品だ。地域の古い写真や証言を収集している島袋茂区長(61年生まれ)によると、区民から東宝の『マタンゴ』(63年)、東映の『夢のハワイで盆踊り』(64年)を見たという話を聞いたそうだ。配給会社「沖映」「琉映貿」「国映」系列の劇場ごとに分かれて上映されるはずの映画をまとめて取り扱っていることから、辺野古には映画館はここだけだと推測できる。なお前述の「沖縄商工年鑑」にも「全配給」と書かれていた。

 区長自身も小学生の頃の思い出がある。映画上映はやっておらず、ときたま訪れる沖縄芝居の一座が巡業の際だけ興行した。

 「役者たちは劇場の控室や映写室で寝泊まりしていました。芝居の前、舞台裏にあった『逆立ち幽霊』で使われる幽霊の人形を観察したのを覚えています」

 中学生になると劇場は子どもたちの格好の遊び場になっていた。

 「卓球台が置かれていました。劇場の中で野球をしたことも。舞台の板は剥がれていて、スクリーンはもう無かったです」

 高校生の頃には劇場に出入りする人もいなくなり、寂れていた。

 「東映Vシネマ『クライムハンター怒りの銃弾』(89年)で撮影場所として使われたこともあります。取り壊し時期はその後…90年代ぐらいかな」

 劇場の跡地を案内してもらった。辺野古公民館の南側にある静かな住宅街の一角で、映画館を営むような立地とは思えない。

 「辺野古というと皆さんは社交街をイメージしますが、かつての中心はここです。商店や郵便局、銭湯もありました」

 映画館を通して、基地の街ではない辺野古の素顔に触れた思いがした。
 (シネマラボ突貫小僧・代表平良竜次)(當間早志監修)