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小さな親切運動を推進、社会貢献している人に「光を当てたい」…仲村正樹さん 国場幸昌氏や屋良朝苗氏、政治へのあこがれ抱く…比嘉克政さん 北部農林高校(13)<セピア色の春>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
寮生らと茶わんを洗う仲村正樹さん(左端)=1966年

 1963年に始まった小さな親切運動を県内で推進する行政書士がいる。仲村正樹(72)、22期だ。心温まる親切を実行した人に贈られる「小さな親切」実行章の対象者を東京の運動本部に推薦している。「人が気付かないところで社会貢献している人に光を当てたい」と活動の原動力を語る。

仲村 正樹氏

 50年、6人きょうだいの長男として本部町伊豆味に生まれる。風光明媚(めいび)な伊豆味が何よりも好きで、小学1年の時から学校を抜け出しては魚取りに興じていた。水道が引かれていない時代で「水くみから草刈り、ヤギの餌やりが日課だった」。両親はパイナップルなどを育てる農家で「パインのおかげでセメント瓦に住むことができた」と感謝する。

 人一倍好奇心が強く、小学校高学年になると、全国を回れる自衛隊や警察官を志すようになる。66年、北部農林高の農産製造科に入学し、学校の寮に入る。写真クラブに所属し、2年から部長を務めた。卒業アルバムの編集委員を務めたのも思い出だ。一方、寮生活は先輩からの指導が厳しく、「反省会」がある日は「朝から青ざめていた」と苦笑する。

 69年に高校を卒業し、写真クラブで培った技術を発揮しようと鑑識官を目指し警察の道に進む。2009年に退職するまで主に「地域課」が長く、警察官として地域に寄り添い、社会に貢献することを信条としていた。

 仲村が警察官時代から続けている趣味がある。家系図作りだ。27歳から始めた系図作りは今も現役で、これまでに約1170家の系図を完成させた。依頼されたら系持ち(諸士など)や無系(百姓)に関係なく、戸籍謄本や位牌などを基に作成する。一方、小さな親切運動はこれまでに県内から65の個人、団体を推薦した。「足が立つうちは続けたい」。警察を離れた今、自らがではなく社会に貢献する人を探し続ける日が続く。

比嘉 克政氏

 浦添市議会議長の比嘉克政(71)は23期。幼少期から政治へのあこがれを内に秘めていた。1951年、5人きょうだいの次男として国頭村安波に生まれた。当時の安波は半農半漁で生計を立てる集落で、比嘉の家でも自給自足の生活を送っていた。「NHKの『ちむどんどん』の世界観そのままだったよ」

 大自然の下でのびのびと育った比嘉だが、映画も娯楽の一つだった。区営バスで辺土名にあった映画館に足しげく通った。当時、辺土名には国映系と琉映系の映画館が二つあった。比嘉は「国場組創業者の国場幸太郎さんは国頭村出身で、大城組創業者の大城鎌吉さんは大宜味村出身だ。その辺が影響したのではないか」と推測する。

 小学生の時、立法院議員選挙に立候補した国場幸昌が自宅前で演説する場面に遭遇した。「政治に対してかっこいいと思った」。比嘉が政治へのあこがれを持つきっかけとなる出来事だ。

 勉強は大の苦手だったが、反面、スポーツは何でもできたという。中学3年にはバスケットボールの地区大会で優勝した。音楽も得意で、「学校のオルガンでいろんな曲を演奏した」。今も音楽は続けており「かっちんバンド」という名のバンドを組んでいる。

 北部農林出身の先生からの勧めもあり、67年に農業科に進学し、陸上部とバスケ部に所属した。当時の北農について「競争率が高く、同級生で落ちる子も少なくなかった」と語る。高校時代に忘れられない出来事がある。68年の行政主席選挙だ。「屋良朝苗さんの当選で学校の雰囲気が明るくなり、先生の表情も明るかった」と振り返る。

 70年に高校を卒業した比嘉は果樹園や自動車部品販売会社などを経て、2005年の浦添市議選で初当選し、政治の世界に飛び込んだ。現在5期目で、昨年4月から議長を務める。北農は比嘉にとって初心に戻れる場所で「厳しくも楽しい青春時代を過ごした」。

(敬称略)

(吉田健一)


 

【沿革】

 1902年4月  甲種国頭郡各間切島組合立農学校として名護に創設
  11年10月 沖縄県立国頭農学校に昇格
  16年3月  嘉手納に移転、県立農学校に改称
  23年4月  林科を設置し、県立農林学校に改称
  45年   終戦により廃校
  46年1月  北部農林高等学校として名護市東江に創設
  49年2月  名護市宇茂佐に移転
  58年   定時制課程を新設
  89年   農業科を改編して熱帯農業科、園芸工学科新設
  90年   林業科を林業緑地科、生活科を生活科学科、食品製造科を食品科学科へ改編