子どもたちの面会 鈴木陽子(沖縄愛楽園交流会館学芸員) <未来へいっぽにほ>


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鈴木陽子

 1950年代、ハンセン病を発症して愛楽園に隔離された子どもたちが暮らす少年少女舎には、身内に連れられて愛楽園に来た人も、生まれ育った故郷で家族と別れて強制収容された人もいました。また、学校に行かずに家にこもっていた人も、愛楽園に来て、初めて大勢の友達に会ったという人もいました。

 子どもたちの日常生活は入所者が務めた寮父母がみましたが、年少者には一人一人、お兄さんお姉さん役の中学生がつきました。中学生たちは任された年少者の身だしなみを整え、勉強をさせ、朝起きてから寝るまで責任を持たされました。この中学生自身も、親元から離されて隔離された子どもでした。

 少年少女舎には家族が面会に来る子どもも、誰も面会に来ない子どももいました。離島で暮らす家族が愛楽園まで来るのは簡単なことではありませんでした。何年も家族の面会がない子どもは「捨てられた」との思いも持ちました。

 八重山から追われるように愛楽園に来た少年は、面会に来る父を待って「四年ぶり面会に来る父親にはじめの言葉なんと云うかな」と短歌を詠みました。久米島出身の少年も、島で別れた父が初めて来た面会を心の底からうれしかったと言います。しかし面会室の真ん中を仕切る壁に開けられた、小さな窓越しの面会は「自分が隔離されている身だということを実感するひとときだった」とも言います。

 仲間から、もう家に帰ることはできないと聞かされた子どもたちは「らい予防法」という法律があることも、この法律によって自分が愛楽園に隔離されていることも知らされることはなかったのです。