<未来に伝える沖縄戦>「馬乗り」から脱出、被弾 翁長安子さん


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 那覇市三原に住む翁長(旧姓善平)安子さん(88)は1945年3月、首里安国寺の永岡敬淳住職が隊長を務めていた沖縄特設警備隊第223中隊(通称・永岡隊)に看護要員として加わりました。当時県立第一高等女学校の生徒で、まだ15歳でした。激しい戦火の中を生き抜き、一人で南部に避難しました。翁長さんの話を首里高校1年の田島結奈さん(16)と井上実歩子さん(16)が聞きました。

沖縄戦の体験談を語る翁長安子さん=那覇市の首里高校

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 《翁長さんは1929年、真和志村(現那覇市)に生まれました。45年2月、真和志村民は大宜味村押川に疎開するようにと命令が出されます。しかし翁長さんは真和志にとどまりました》

 兄2人が兵隊だったので、私もお国のために役立ちたいと思ってました。親友の金城貞子さんと信子お姉さんの姉妹もお父さまが小学校の校長先生をされていたため疎開しなかった。それで私も「一緒に頑張ろう」と思ったのね。でも貞子さんは集合の伝令が出て、南風原の陸軍病院に行きました。

 一緒に頑張ろうと誓った親友と離れ、寂しかったです。そんな時、安国寺の住職である永岡敬淳隊長が率いる永岡隊が、炊事などをする看護要員を募集しているとの話を聞きました。信子姉さんがその看護要員に誘われていて、私も「信子姉さんと共に従軍しよう」と決めました。

 《永岡隊に集まったのは20歳前後の女性8人。15歳は、翁長さんただ1人でした》

 私は炊事係として働いたけど体が小さいから、おにぎりを握っても小さいし、うまくできない。敵に見つかりにくいから水くみや飯運びをやりました。私がいた首里は全軍を指揮する第32軍司令部があったので、米軍からの攻撃が激しかった。残ったのは県立一中(現首里高校)の鉄筋コンクリートの校舎と教会ぐらい。弾が飛び交い、米軍が通過する中を、何回も死んだふりしながらご飯を運びました。

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 《米軍の猛攻を受け、第32軍司令部が5月27日に首里から撤退を始めました。でも永岡隊は郷土部隊だから最後まで首里を守り抜けと伝令が出ます。翁長さんは安国寺にある壕にとどまっていました》

 29日の明け方、水くみに出ると、哨兵が「トンボ(偵察機)が来るぞー」と叫ぶやいなや、いつもより早く偵察機が飛んできました。日本軍が撤退しているか確認するためだったんでしょうね。大急ぎで壕に駆け込んだけど、すぐさま戦車砲がボーンっと響きました。どんどん戦車が近づいてくる音がして、火炎放射機が壕の入り口を焼き始めました。

 炎と煙はようやく収まったけど、息苦しくてたまらない。壕の上でギリギリッ、ギリギリッと音がしました。永岡隊長が「馬乗りされたな」とおっしゃいました。馬乗りとは米軍が壕の上に乗って、穴を掘って爆薬を入れること。トンネルを掘るときにする作業を、私たちがいる壕でもしたのよ。ガラガラッと岩が崩れ始めた音は聞いたけど、その後はよく覚えてません。

 私たち女性の側には大きな金庫があったから岩が崩れても助かったけど、脱出しないといけない。永岡隊長のベルトを握って踏み出して出口に来たら、辺り一面は首や手足のちぎれた死体がごろごろ。注意深く一歩二歩と歩いたけど死体を踏んで転んで、崖から転げ落ちてしまいました。

※続きは3月14日付紙面をご覧ください。