教室の中が真っ赤になった 金城清正さん


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 「突然のことでね、何が起きたのか分からなかった」。金城清正(きんじょう・きよまさ)さん(70)=糸満市=は11歳の時に体験したジェット機墜落事故の記憶をたぐり寄せた。

学びや一転

墜落事故当時11歳だった金城清正さん=沖縄県糸満市

 その日はいつもと変わらない晴れた火曜日だった。2時間目の授業が終わり、ミルク給食の時間。金城さんは自分の席でミルクを飲んでいた。「バン」。突然大きな音がしたと思ったら、教室中が赤い光と煙に包まれた。「机の下に潜りなさい」。すかさず担任の先生の声が響いた。混乱状態のまますぐに先生は「外に出なさい」と指示。何が起きているのか理解できないまま金城さんたちはめちゃくちゃに破壊された廊下を走り、教室のある2階から1階へ駆け下りた。

 ジェット機が墜落し、変わり果てた学びや。両腕から血が流れている女の子を抱く大人。長いすに寝かされた黒焦げの幼い子。見たこともないような惨状にみんな混乱していた。どこに行けばいいのか分からないままあたりを歩いた。ほかの友達がどこに行ったのかなんて分からなかった。

 学校には事故を聞きつけた保護者が自分の子どもの無事を確かめるために集まっていた。
近くで働いていた金城さんの母親も駆けつけた。わが子を見つけると目にいっぱい涙を浮かべ「大丈夫か?けがはないか?」と無事を確かめるように何度も体を触った。母1人、子1人の家庭。「うちの子はどうしているかね」と学校にのぞきに来るほど、母親は金城さんのことを大事にしていた。

 母に手を引かれ家に帰る途中、地域の住宅も被害に遭っていることを知る。母の実家も焼けて無くなっていた。母の実家には祖母、叔母がいた。台所にいた祖母は飛ばされて即死。裁縫をしていた叔母もけがを負い、入院した。祖母の葬儀がどこで執り行われたのか覚えていないが、金城さんの家に親戚が集まり、大人たちが泣いていたのを覚えている。

ジェット機が突っ込んだ6年3組の教室。金城さんのクラスだった=1959年6月30日

変わらない空、変わってしまった同級生

 金城さんは傷1つなかったが、同級生が3人亡くなった。そのうち伊波正行君とは休み時間になるとよく空手ごっこをした。足は悪かったけど、力は強かった伊波君に負かされることもたびたびだった。今、同級生たちと伊波君のことを話すことはないが、存在を忘れることはない。写真で見る伊波君はいつまでも小学校6年生のままだ。でも、最近なぜか大人になった姿が目に浮かぶ。「生きていたら今頃どんな会話をしていたかねえ」とぽつりとつぶやいた。

 当時の石川の人たちにとって米軍の存在は身近だった。ほとんどの人が軍作業で生計をたてていたし、米軍が捨てたハムやソーセージを取ってきて自分の店で売っている人もいた。近くの石川ビーチは米軍の保養地で、米軍人やその家族がよく遊びに来ていた。景気の良かった米兵は石川の子どもたちに1セント玉をばらまいた。頭上を飛ぶ米軍機の音も当たり前だった。しかし、事故後その音は子どもたちを苦しめた。

 事故から2週間ほどたってから、テントでの授業が再開した。あれだけ大きな事故の後だが、米軍機は以前と変わらず飛び続けていた。クラスメイトの女の子の1人はそのたびに恐怖心から狂ったようにわめいた。その子だけでなく不眠や不登校、夜中に叫び出すなどの神経症状が出た児童が複数いたことは、米側の資料にも記されている。

資料を指さしながら当時のことを語る金城清正さん=沖縄県糸満市

 宮森の事故から59年。沖縄は米軍機の事故が後を絶たない。事故のニュースを見聞きするたびに59年前のあの地獄のような光景が目に浮かぶ。2017年12月には宜野湾市の緑ヶ丘保育園と普天間第二小学校に米軍の部品が落下した。「昔と変わらない。ウチナーンチュ(=沖縄の人)は軽く見られている」と思わずにはいられない。

(玉城江梨子)

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