宮森小事故 沖縄出身故に葛藤 元米兵東恩納さん 複雑な心境回顧


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リポートをまとめた当時の心境を語る東恩納良吉さん=5月24日、那覇市内

 「ウチナーンチュと米国人というアイデンティティーのはざまで、葛藤があった」。戦後最悪の米軍機事故となった宮森小ジェット機墜落事故を受け、米兵として負傷者の心境を聞き取り調査した県出身の東恩納良吉さん(82)=米ハワイ州在住=は5月下旬、那覇市内で琉球新報の取材に応じ、当時の複雑な心境を語った。

 旧具志川村塩谷出身の東恩納さんは、9歳で沖縄戦を体験し、日本軍の通訳兵だった父はフィリピンで亡くなった。母の強い要望で1947年4月、親族を頼り単身ハワイへと渡った。だが、米国市民権を取得していたため徴兵され、58年11月、米兵として米統治下の故郷に足を再び踏み入れた。

 ジェット機墜落事故は着任から7カ月後に起きた。60年5月、反米感情の増幅などを懸念した琉球列島米国民政府(USCAR)のブース高等弁務官は直々に負傷者の状況を報告するよう命じた。

 東恩納さんは5日間で負傷者とその家族らとの面談を約10件こなした。被害者の苦しみや悲しみ、米軍に対する怒りがひしひしと伝わり、胸が締め付けられる思いだったという。何より自身もウチナーンチュであることや、戦後もたくさんの犠牲を押し付けられている沖縄の現状に気付かされた。

 負傷者の悲痛な思いが高等弁務官に伝わるよう、リポートには事実を丁寧に書き込んだ。だが、一部の被害者は賠償が認められず、無念さが残った。東恩納さんは「墜落事故も含め全ての根源は戦争にあった」と語り、二度と戦争は起こすまいと非戦への思いを強くした。

(当銘千絵)