基地ない島へ 好機再び信じ
生まれた時から基地があった。読谷村で生まれ育った新垣大吾さん(40)=うるま市=がそのことを問題として意識したのは1996年春だった。身近な基地とは「象のオリ」と呼ばれた楚辺通信所である。
当時の大田昌秀知事が未契約軍用地の強制使用手続きの代行を拒んだため、国は施設内にある未契約軍用地の使用権原を96年3月末で失うことになった。
当時の那覇防衛施設局は地主らの立ち入りに備え、施設を取り囲むようにフェンスを設置した。3月26日のことだった。
施設周辺の小高い丘は高校の仲間たちと時間を過ごす大切な場所だった。恋人と会話を楽しむ場でもあった。それが国の力によって奪われた。「いまいましいフェンスが」という憤りが湧き起こった。
新垣さんは地元の反戦地主に誘われ、行き場のない悔しさ、基地に翻弄(ほんろう)される沖縄の現実を歌にした。
「大きな力に抑え込まれたこの島、繰り返される噓」「何が本当の正義なのか教えて」。新垣さんは率直な思いを歌詞に込め、大人に問い掛けた。同級生とギターを弾き、歌った。フォークデュオ「波平ーズ」の誕生である。
96年9月8日、米軍基地整理縮小の是非などを問う県民投票が実施された。基地にあらがう沖縄のうねりは最高潮に達していた。そのただ中に波平ーズは飛び込んだ。
「基地がない沖縄を実現できる」。新垣さんは大きな期待を抱いていた。
県民投票に向けてのイベントで歌った。この現実を自分たちで変えるんだという思いは日増しに高まった。
それから22年。新たな県民投票の動きが沖縄で起きた。新垣さんは当時を振り返りながら「政府に対し、弱まった沖縄の力を取り戻すチャンスだ」と語る。
希望 何度つぶされても
1996年9月8日に実施された県民投票は投票率59・53%で、米軍基地の整理縮小などに賛成は89・09%に上った。その5日後の13日、大田昌秀知事は政府の米軍用地強制使用手続きの公告縦覧代行に応じた。
「この数日間で、なぜ変わってしまったの」。投票を呼び掛けた新垣大吾さんの期待は打ち砕かれた。11月8日、高校生の仲間と大田知事と面談し、怒りをぶつけた。「基地があるために、沖縄の人は明日死ぬかもしれないんです」
大田知事と高校生の面談は2時間余に及んだ。知事の答えは「理想と現実は違う。理想を追いかけすぎて勉強が足りない」というものだった。新垣さんは「理想も語れない大人がなぜ知事になれるのか、反発しかなかった」と当時を振り返る。
それから22年が過ぎた。時間は新垣さんの米軍基地に対する気持ちを変化させた。大田知事が難しい状況下で政府と交渉を重ねていたのだとも感じる。今、若い同世代は議論を避け、基地を肯定したり、距離を置いたりする人も多い。社会の中で基地に対する熱量が減っていると新垣さんは感じている。「期待しては希望をつぶされることが繰り返されすぎた」
辺野古沿岸部の新基地建設現場では土砂投入が迫っている。「このままでは止められないかもしれない」と率直に感じる。中国脅威論が広まる中では、建設反対の明確な理由がなければ、多くの人を納得させるのは困難だとも思う。
それでも県民の心に残された熱量の可能性を信じ、辺野古新基地の是非を問う県民投票に期待する。「辺野古新基地建設についての議論をもう一度高めるきっかけになるのではないか」
新垣さんは22年ぶりの県民投票の行方に沖縄の明日を見つめている。
(中村万里子)
辺野古新基地建設の是非を問う県民投票の実施を求める署名数が法定数を大きく超えて、実施の公算が高くなった。県民投票は米軍基地の整理縮小の是非を問う1996年の投票以来、2度目となる。
改めて新基地建設への意思を示す県民投票にどのような意義があるのか、当時を振り返りながら話を聞いた。
2回目以降は琉球新報の紙面でご覧ください。