原爆の地獄もう二度と 「私たちで最後に」 広島で被爆 雛世志子さん=沖縄市


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13歳の時に広島で被爆した雛世志子さん。被爆者健康手帳を手に「今も夢に見る」と原爆の恐怖を語る=3日、沖縄市安慶田

 「本当に地獄だった」光景は、73年たった今も夢に現れ、彼女を苦しめている。13歳のころ、広島で原爆に遭った雛(ひな)世志子さん(86)=沖縄市。戦後長らく、被爆体験を胸にしまい込み、懸命に生き抜いてきた。大勢の孫やひ孫に恵まれた今、強く願う。「被爆者は私たちで最後にしてほしい」

 1945年8月6日朝、空襲警報が解除され、いつものように広島県船越町(現・広島市安芸区)の町工場に向かった。一家4人は6年前、叔父を頼って大阪から移っていた。ピカッと光った後、ドーンとものすごい音がした。その後に聞こえたのは「大変だ!」の声。しばらく気絶していたようだ。

 雛さんらは知人を探しに爆心地近くに入った。「地獄のような恐ろしい」光景が目に飛び込んできた。熱線で焼けただれた人、体中にガラスが刺さった人、顔や唇が腫れ上がった人が「道という道」にいた。病院の廊下はけが人であふれていた。「助けて」「水ちょうだい」の声が飛ぶ。

 やけどの傷口からは、ウジ虫がわいていた。手当てを頼まれた雛さんは、ピンセットでウジを取り、肌の皮を剝いだ。毎日、何十人と亡くなっていく。雛さんらは運動場に穴を掘り、遺体を火葬した。焼いた骨を粉にし、やけどの患者に塗った。「泣きながら、神も仏も無いのかと思った」

 広島市によると、45年12月末までに、約14万人が原爆で亡くなったと推計される。雛さんはけがもなかったが、被爆から約1年後、奄美大島出身の父の体に異変があった。どんどんやせ細り、「痛い、痛い」と苦しみながら亡くなった。享年46。放射線の影響とされる白血病だった。

 残された一家は50年、親類を頼って沖縄へ。雛さんは米軍基地内や飲食店で73歳まで働き、母と一人娘を養った。その間、周囲に被爆体験を語ることはなかった。「原爆症がうつる」との流言があり、被爆者への差別が存在したからだ。結婚を控えた娘からは「彼の両親には言わないで」と念を押された。「自分はどうして生まれてきたのか」と思ったことも、一度や二度ではない。

 10年ほど前、初めて公に被爆体験を語った。それから毎年、学校や公民館に呼ばれ、「戦争のない国に」と訴えてきた。しかし今年は体調不良に悩まされ、初めて断った。がんの手術も経験している。

 被爆から73年。「怖くて震えた」光景が今も夢に現れ、うなされることがある。「原爆ほど恐ろしいものはない。生き残っても、ずっと(原爆症の)不安が続く。今度、核兵器が使われたら…」。想像が現実とならないよう、願い、祈っている。
 (真崎裕史)