強まる「嘉手納」撤去の声 恐怖 全県に拡大【黒煙の行方(下)】


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ベトナム爆撃のために嘉手納基地に飛来したB52戦略爆撃機=1967年3月21日

 B52が墜落した先にあったのは核兵器や毒ガスが貯蔵されているとされていた知花弾薬庫だった。B52が原子爆弾を搭載できる機体だったこともあり、墜落事故の恐怖は周辺住民だけでなく、全県に広がった。事故後、B52の撤去を求める声は強まった。県民の「祖国復帰」運動は次第に基地の全面撤去を求める「反戦平和復帰」の色を濃くした。

 事故に真っ先に反応したのは嘉手納村民だった。事故当日夜、緊急村民大会が開かれた。事故への怒り、恐怖に震える村民ら5千人(主催者発表8500人)が嘉手納総合グラウンドに集まった。大会中も嘉手納基地からジェット機のエンジン調整音が響いた。

 大会には大学1年生だった山城正助さん(70)の姿もあった。山城さんは那覇で大学の授業を受けていた時に事故を知った。「あのやろう」。嘉手納に住んでいた頃はB52の騒音や悪臭に苦しめられた。「受験勉強どころじゃなかった。いつか嘉手納に落ちるかもしれないとも思っていた」。よみがえる怒りで両手を握りしめた。

 1968年12月7日に発足した「生命を守る県民共闘会議」には幅広い層の139団体が結集した。共闘会議で全軍労の上原康助委員長は沖縄初のゼネストの実施を提案。「B52撤去、原潜寄港阻止、一切の核兵器の撤去」を目標に掲げた。日米政府の圧力や屋良朝苗主席の要請により、ゼネストは回避されたが、69年2月4日にB52の即時撤去などを求める県民集会が開催された。58団体、約3万人が集まった。県民世論の高まりなどを受け、B52は70年10月6日に全機が撤退した。

 日本政府は沖縄の「基地負担の軽減策」として、嘉手納より南の返還計画を進める。嘉手納爆音差止訴訟原告団の新川秀清団長(81)は米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古への新基地建設を挙げて「嘉手納より北は基地の履き捨て場か。危険性は普天間飛行場だけでなく、嘉手納基地も同じだ。周辺に住む者として嘉手納基地の存在を『よし』とできるはずがない。われわれの要求を実現するためには基地の撤去に踏み込まなければならない」と強調する。

 米軍普天間飛行場がなくなっても嘉手納基地があるから抑止力は落ちない―。そうした言説に山城さんは「頭にくる」と声を震わせる。毎日のように米軍機が爆音とともに頭上を飛び交う。「基地が嘉手納にある必要はない。県外でもいいはずだ」と語り、米軍機による騒音も事故の危険もない生活を願った。
 (安富智希)

B52撤去を求める県民大会=1969年2月4日、嘉手納