硫黄島で最期 兄の遺骨収集を 石垣出身崎山さん妹要望「生前会いたかった」


この記事を書いた人 Avatar photo 高良 利香
硫黄島で亡くなった戦没者の名簿で兄・崎山和男さんの名前を確認する妹の崎山和子さん(右)と山田真澄さん=12日、宜野湾市

 太平洋戦争末期、沖縄戦直前の1945年2月から同年3月にかけて、日米の激しい地上戦が行われた硫黄島の戦闘には県出身者も数多く動員され、命を落とした。石垣島出身で瀬底島の国民学校(現小学校)で教員を務めていた崎山和男さんもその一人。日本軍に召集され、24歳の時に硫黄島の戦闘で帰らぬ人となった。硫黄島を含む小笠原諸島が戦後23年間の米統治下を経て日本に返還されて今年で50年が経過した。県内に住む妹らは、兄の最期の地での遺骨収集活動への参加を希望している。

 1920年4月に石垣島で生まれた崎山和男さん。母の美津さんは和男さんが子どもの頃に病気で他界した。父の哲男さんは石垣、東京、満州などへ移住を繰り返しながら警察官、電気屋、焼き鳥屋、大工など多様な仕事に就いたという。

 住まいを転々とする中でも勉強に励んだ和男さんは沖縄師範学校に入学した。在学中も学生寮の室長などまとめ役となって優秀な成績で卒業し、教員として瀬底島へ赴任したが、道半ばで日本軍に召集され、戦争に巻き込まれた。

崎山和男さん(崎山和子さん提供)

 異母きょうだいで、戦後に生まれた妹の崎山和子さん(69)と山田真澄さん(64)は兄の和男さんと会ったことはない。しかし、父や知人から生前の兄について「頭が良い」「勇気のある人」と聞かされてきた。親戚の間でも「期待の星」だったという。その兄がどのように亡くなったのか、詳細は分かっていない。

 約2万2千人の日本兵が亡くなったとされる硫黄島の戦い。戦没者遺族でつくる「硫黄島協会」が持つ戦没者名簿には沖縄出身者の名前が100人以上ある。同名簿で「歩兵第一四五連隊」に兄の名を確認した和子さんと真澄さんは「これだけ多くの人が硫黄島で戦い、亡くなったんだ」と犠牲の大きさに驚く。

 戦時中、哲男さんも日本軍として召集されたが、命は助かり、92年に病気で亡くなった。

 返還から50年が経過するが、硫黄島は今も慰霊祭や遺骨収集など特別な日程以外の立ち入りには制限がある。

 硫黄島協会沖縄支部長を務めた哲男さんは、生前、戦後30年の1975年3月に遺族として硫黄島での慰霊祭に参加して息子の冥福を祈り、「最後に行けて良かった」と話していたという。

 和子さんや真澄さんは「兄が生きていたなら、会いたかったという思いがある」「一度は硫黄島での(戦没者の)遺骨収集に参加したい。その場に立って慰霊をしたい」と思いを語った。
 (古堅一樹)