辺野古県民投票を考える前に…そもそも普天間飛行場移設問題とは?


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 米軍普天間飛行場の返還・移設問題は1995年の米兵による少女乱暴事件に端を発する。少女乱暴事件を受けて県民の反基地感情が頂点に達し、96年に返還が合意されたが、県内移設条件付きで、実現のめどは立っていない。県民の県内移設への拒否感が高まる中、政府は名護市辺野古移設に固執している。

 当初計画は辺野古沖合への海上ヘリポート案で、規模は小さく撤去可能とされた。当時の大田昌秀知事は拒否したが、続く稲嶺恵一知事(当時)は「苦渋の選択」として「15年使用期限」「軍民共用空港」の条件を付けて容認した。しかし反対運動などで移設作業は難航する。政府は移設案を見直す過程で稲嶺氏が受け入れた際の条件をほごにした。

 政府はあくまで沖縄の負担軽減につながる「代替施設建設」と強調するが、県内では基地機能が強化される「新基地」と呼ばれている。普天間飛行場にない弾薬庫機能や大型艦船が停泊できる護岸整備も予定されるためだ。建設予定地の大浦湾に軟弱地盤が広がることなどから、県は基地建設に13年以上かかると独自の試算を示し「早期返還につながらない」と指摘している。