<未来に伝える沖縄戦>妹亡くし、爆音で難聴に 香村小夜子さん


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 与那城村(現うるま市)平安座で生まれた香村小夜子さん(83)=宜野湾市=は、沖縄戦の影響で幼い妹を失います。父は米軍の爆撃に遭って足を切断し、自身も右耳の聴力をなくします。宜野湾中1年の崎間穂乃佳さん(13)と2年の伊波夢花さん(14)が、香村さんの話を聞きました。

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「目が覚めると隣にいた人が亡くなっていた」と語る仲井間小夜子さん=沖縄市

 《香村さんは1935年に平安座島で生まれました。父の恵向さんは船乗りで、戦争が始まってからは軍需物資を運ぶため鹿児島へ行きました。1944年の「10・10空襲」が起きた時は、祖母と母と暮らしていました》

 「戦争がやって来た」と感じたのは44年10月10日の大空襲から。当時、私は小学3年生でした。その時までは戦争がどんなものか全く分かりませんでした。突然戦闘機がたくさん飛んできて、爆弾をたくさん落としていきました。学校の校舎も、家も、船も、いっぱい燃えました。初めての体験ですから、自分の身をどこに隠そうかみんな慌てふためきました。各家庭は防空壕を造っていましたが、壕さえも探せないぐらいの混乱でした。翌11日、妹のトシ子が生まれました。

 《45年2月、平安座島の人たちは国頭方面に疎開するよう軍から言われました。女性だけが残っていた香村さんの家族は、指示に従って国頭村安波へ向かいます》

 祖母、母、生まれて間もない妹と4人で安波に行くことになりました。島の東の港からやんばる船に乗りました。大きな帆を立てた船は翌朝、安波の港に着きました。

 避難場所は安波の学校でした。大人数で2カ月ぐらい学校に住んでいました。当初は、やんばるはまだあまり攻撃は受けていませんでした。だけど3月下旬から、安波にも爆弾がたくさん投下され、集落が燃やされました。安波の人たちは山に避難小屋をいくつも造っていました。学校にいられなくなり、山に避難しました。

 《山の中での避難生活は、食料もなく過酷なものでした。米軍の攻撃は日に日に激しくなりました。平安座島の人たちは話し合い、「どうせ死ぬなら生まれ島に近いところがいい」と、島へ戻ることを決めました》

 谷を越え、川を渡り、ジャングルのような山の中を歩きました。食料は何もなく、みんな栄養不良でした。空腹のため妹が泣くことがありました。すると「ここから出て行け。泣き声でアメリカ兵が来る」と言われました。一緒に行動させてほしいとお願いするしかできません。母と私は交代で子守をしました。

 東村慶佐次で10日ほど過ごし、さらに南下して名護市汀間(てぃーま)に着きました。何も食べ物がありません。ガジュマルとフクギの木がありましたが、フクギの葉は何時間炊いても柔らかくなりません。のどを通らず、ぱさぱさして堅い。ガジュマルも食べられません。この二つは誰も取らなかった。その他は苦くても何でも食べました。草の葉が私たちの生きる源でした。

 安波から南下していく道の途中、亡くなっている人たちを何十人見たか分かりません。ウジが湧いて、ものすごい臭いでした。そのまま野ざらしの遺体もありましたし、松の葉で覆われているのもありました。地獄でした。なんと言葉で表現したらいいか…残酷で悲惨でした。

※続きは2月13日付紙面をご覧ください。