一枚の写真がある。撮影は普天間飛行場の名護市辺野古移設を問う名護市民投票があった1997年12月。名護市豊原にあった市活性化市民の会久志支部の事務所に集う辺野古の青年たちだ。まだ30代前半だった。
名護市民投票で3人は「辺野古の活性化」を掲げ「賛成」への投票を呼び掛けていた。当時の久間章生防衛庁長官ら政府首脳や梶山静六氏ら有力政治家が東京から大挙して来県し、口をそろえて言った。「賛成が勝つように頑張ってくれ」「地元の声を聞きたい。要望を必ず伝える」
あれから22年、全員が50代になった。3人は24日に迫った新基地建設に伴う埋め立ての賛否を問う県民投票を「どうでもいい」「そういう気力はない」と冷ややかに見つめる。当時思い描いた辺野古の将来と現実は「全く違う」。
「今までの20年間は何だったんだろう。ふたを開けたら空っぽ。取らぬ狸(たぬき)の皮算用だった」。支部青年部補佐だった多和田真也さん(53)は、若い頃思い描いた活性化の青写真を苦笑して否定する。
3人が望んでいた振興策とは別の施策が進められた。名護市は金融特区になり、久辺3区にIT企業が入居するマルチメディア館や国立高等専門学校ができた。ところが地元の雇用はほとんどない。
辺野古区青年会長だった古波蔵謙さん(51)は言う。「ITは専門分野で、能力が必要。僕らがそこに就職することはない。われわれへの還元はない」。地元が望んでいた施策と国や市が用意した振興策にはずれがある。「僕らが求めていた通りになっていない。現状を見てほしいな、政府に」
シュワブの騒音は激しさを増し、新基地建設工事で道路は毎日渋滞が発生する。住民の負担は増える一方だ。希望から諦めも広がっていく。青年部長だった知念良和さん(57)は「僕らは地元だよ。だから一生懸命頑張ってきたんだよ」。このまま辺野古が置き去りにされていいとは誰も思っていない。ただ、今後どうなるか分からない。政府の振興策を「信じるしかない」と古波蔵さんは言う。
多和田さんは「地元がみんな賛成というのは間違いだよ。振興策に期待していたから我慢できた。何もできませんってなって頭にきているわけさ。条件ができないなら、造る前に言ってほしかった」。護岸工事が進み土砂投入目前になった昨年8月、政府は個別補償ができないと区に伝えた。
古波蔵さんは県民投票には行かない。多和田さんと知念さんは行くかどうか迷っている。行っても「反対には入れない」という。「護岸やら何でもかんでもできてしまって、いまさら問うことはできない。なぜ造る前に住民投票をやらなかったのか」「あれだけ大きな壁を止めることは絶対できない」。口々に漏れる言葉には諦めがにじむ。
「これから、どうなるんだろうね」。心の底にたまったものを押し流すように、古波蔵さんはコップの泡盛を飲みほした。
(阪口彩子)
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米軍普天間飛行場の返還に伴う新基地建設工事で、人口約1900人の集落「辺野古」に重い国策がのしかかる。政権や県政、市政が交代するたび、政治による影響を直に受けてきた辺野古。名護市民投票から22年目となり、新たに県民投票を迎える。20年以上続く問題に地元は何を思うのか。辺野古に生きる人々の思いを聞いた。