芸能・文化

『奄美 日本を求め、ヤマトに抗う島』 四つの住民運動の記録

『奄美 日本を求め、ヤマトに抗う島 ―復帰後奄美の住民運動―』斎藤憲、樫本喜一著 南方新社・4104円

 本書は、奄美復帰後に起きた四つの住民運動のドキュメント。1973年、奄美南部は宇検村の無人島・枝手久島に、東亜燃料(本社・東京)が石油精製工場を建設すると発表したのだ。赤字財政に苦しむ村には、“救世主”の出現だったが、14集落のうち9集落が賛成、4集落が反対、1集落が半々と分かれて対立した。反対の火の手はあっという間に広まり、やがて島ぐるみ闘争に。

 十数人もの逮捕者が出るなどの激しい攻防が続いたが、その後、石油供給量の低落で翳(かげ)りが見えはじめ、1984年10月、東燃側が断念に踏み切った。ゴールなき闘いとみられていただけに、呆っ気ない幕切れだった。

 “闘牛の島”徳之島は、あわや、「核のゴミ」処理場にされるところだった。コードネーム「MA―T計画」を阻止したのは、持ちまえの反骨精神と、薩摩藩時代、2度にわたる百姓一揆で強権に泡を吹かせた歴史の記憶だった。

 瀬戸内町は、原子力船「むつ」の母港誘致に一時熱心だった。しかし房弘久町長は、誘致派の議員の質問に対し、「原子力については十分研究していないし、勉強不足で分からない」と答弁し、以後も慎重な姿勢を崩さなかった。業を煮やした議員が、国策に沿う決断を迫ると、こう切り返した。

 「あなたが国を愛するように、私は島を愛する人であります」

 房町長には過去に、大臣を“袖”にした逸話があった。1974年9月、亀岡高夫建設大臣が来島した。房は名瀬で他市町村の首長とともに陳情を行う。しかし翌日、大臣が南部大島を視察した折、大島中学(現大島高校)の同窓会に出席するため町を留守にして、後事を助役に託していた。後日、このことを議会で追及されると「私たち同窓会は半年前から決まっていた。もしそのような批判があるとすれば甘んじて受けます」と神妙に答えて、質問者をけむに巻いたという。中央とのパイプを後生大事にし、またそれを”売り”にする政治家がのさばるなか、主権在民を身を以って示す地方政治家も稀(ま)れにはいるのである。

 (中村喬次・エッセイスト)

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 かしもと・よしかず 1964年生まれ。大阪府立大学客員研究員。

 さいとう・けん 1958年生まれ。大阪府立大学名誉教授。

 

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斎藤 憲 樫本 喜一
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