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海の底に沈んだ教え子が1人ずつ枕元に…引率教師の女性、自責の念は今も消えず


この記事を書いた人 Avatar photo 安里 洋輔
今も自責の念が消えないと話す元引率教諭の糸数裕子さん=7日、那覇市

 「最近、また夢を見るようになったんですよ」

 糸数裕子(みつこ)さん(94)=那覇市=はぽつりとつぶやいた。1944年8月22日。台風で荒れ狂う夜の海で見た光景を今も覚えている。

 当時19歳だった糸数さんは、那覇国民学校の引率教諭として対馬丸に乗船していた。船は鹿児島県悪石島沖で米軍の魚雷攻撃を受けて沈没。糸数さんと子どもたちは夜の海に投げ出された。

 「いかだにしがみついて前を見ると、大勢の子どもたちが海に浮かんでいた」

 波しぶきを受けて一瞬目を閉じ、また目を開けるとそこにあったはずの人影は消えていた。

 多くの教え子が犠牲になる中で生き残った。以来、暗い海の底に沈んだ子どもたちが1人ずつ枕元に立つようになった。

 「子どもたちの顔ははっきり覚えています。ずうっと夢に出てきてましたが、5年ほど前からぷつりと見なくなった」

 対馬丸の撃沈から75年の節目を前に、昨年ごろから再び、懐かしい顔が夢の中に現れるようになった。

 思慕の念とともにこみ上げるのは、救えなかった命への拭いがたい自責の念―。

 「夢の中で生徒が言うんです。『みんながそろったら迎えに来るよ』って。でも、私はこうしてまだ生きている。あの海でちりぢりになって亡くなった子どもたちはまだ再会できていないってことなんでしょう」

 糸数さんは漁船に救助され、宮崎に疎開。沖縄に戻ったのは、終戦翌年の46年9月だった。小学校教員として再び教壇に立ち始めたある日、那覇市の平和通りを歩いていると声を掛けられた。

 「先生!」。笑顔で語り掛けてくる教え子の言葉に思わず身震いした。「生き残ってしまった」。そんな後ろめたさからだった。

 対馬丸でわが子を失った親が「うちの子どもを返してくれ」と自宅まで押しかけて来たこともあったと、父から聞かされていた。

 「遺族に合わせる顔がない」。目立つ行動は避けるようになった。2004年に那覇市若狭に開館した対馬丸記念館には、糸数さんと同じように生き残った引率教員らの手記が残されている。

 消えぬ自責の念から、14年、対馬丸犠牲者の慰霊のために当時の天皇皇后両陛下が来県した際も慰霊祭への参加を断った。

 「せめてもの供養に」と手編みのレース3枚を記念館に寄贈。うち1枚は糸数さんの話に感銘を受けた皇后陛下に進呈された。

 「レースを編んでいる時だけはつらい記憶を忘れられる」。自身の傷も少しずつ癒やしてくれた鎮魂のレースを、今年も新たに記念館に寄贈した。22日の慰霊祭で香炉と共に供えられる。
 (安里洋輔)


 学童や一般の疎開者を乗せた対馬丸が米軍の潜水艦に撃沈されて22日で75年を迎える。生存者や遺族ら対馬丸をめぐる人々は何を思い、何を背負って生きたのか。それぞれの“航跡”をたどった。