養父の最期知りたい 米軍撃沈の嘉義丸 不明乗員の足跡たどる


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米軍に撃沈された嘉義丸の乗員、故外間善太郎さんの足跡を調べている佐渡山千鶴子さん(左)と長女の純子さん(中央)。体験者の真栄田栄子さんから話を聞いた=11日、今帰仁村越地

 【北部】奄美大島沖で1943年5月26日、米潜水艦に撃沈された航路船「嘉義丸」(2344トン)の乗員・外間善太郎さん=当時(45)=の最期について知りたいと、共に暮らした佐渡山千鶴子さん(82)=恩納村=が足跡を調べている。11日、佐渡山さんと長女・純子さん(49)が撃沈時の乗客だった真栄田栄子さん(94)=今帰仁村=と初めて面談し、体験を聞いた。佐渡山さんは「養父に少し近づけた気がする」と語った。

 佐渡山さんによると、戦前は外間さん、その妻アイ子さんの3人で大阪で暮らしていた。アイ子さんは佐渡山さんの実母の姉。子どもがいない外間夫妻の下へ、3歳ごろに台湾から送り出された。戦時遭難船舶遺族連合会発刊の冊子「海鳴りの底から」によると、外間さんは一等司厨員、本籍は那覇市東町との記録がある。

 養父母はとても優しく、物心ついた佐渡山さんは「本当の両親だと信じていた」。だが、6歳になると台湾の実親の下へ突然帰された。「弟や妹の世話をさせるため、実親が呼び戻したのではないか。何も伝えられずに別れ、直後は養父母を恨んだ」

 戦後、佐渡山さん一家は台湾から、夫を失ったアイ子さんは大阪から沖縄にそれぞれ引き揚げた。アイ子さんは再婚し、佐渡山さんが中学生のころに亡くなった。

 養父母を懐かしむ気持ちは年を重ねるほどに強まり、近年、外間さんの最期を知りたいと願うようになった。「手元には写真1枚もない。養父方の親類、最期を知る人とつながりたい。せめて最期を迎えた場所で手を合わせたい」。本紙を通じ、体験者である真栄田さんと初めて面談した。

 真栄田さんは当時17歳。大阪からの帰路だった。30代後半のいとこの女性、その子ども3人も一緒だったが、いずれも亡くなった。3等客室を利用し、航海中は船で作られた食事を食べていた真栄田さんは「外間さんが作った料理を食べたかもしれないね」と振り返った。

 佐渡山さんは「養父を思い苦しかった気持ちが、真栄田さんと会えて少し楽になった」と感謝した。一方、「養父はどこで亡くなったのか。まだ誰にも見つからないままでいるのかもしれない」と語り、乗客の手当てや遺体が安置された奄美大島を今後訪ねて弔うつもりだ。

 戦時遭難船舶遺族会によると、嘉義丸は米軍に攻撃された戦時遭難船舶32隻のうち最初の船で、犠牲者は乗客321人、乗員18人となっている。 (島袋貞治)