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「敗くることなし」強い思い 死の恐怖、心身むしばむ<正義を求めて―58年後の再審判決>上


「敗くることなし」強い思い 死の恐怖、心身むしばむ<正義を求めて―58年後の再審判決>上 1962年ごろのボクサー時代の袴田巌さん(右)と勝又好子さん(勝又さん提供)
この記事を書いた人 Avatar photo 共同通信社

 「ばい菌と戦う」と口にし、刑務官を思い起こさせるような成人男性におびえる―。死刑囚としての日々は、ボクシングでならした心身をむしばみ、袴田巌さん(88)には釈放から10年たった今も拘禁症の症状が残る。

 袴田さんは、今の浜松市中央区で生まれた。「小柄な体で自分より高い跳び箱を悠々と超えた」。小中学校の同級生藤森勗(つとむ)さん(88)は懐かしむ。口数は少なかったが、友人思いの優しい性格。運動神経は抜群だった。

 中学卒業後、ボクシングを始め、23歳でプロボクサーになった。交流のあった勝又好子さん(87)=東京都江戸川区=によると「穏やかな顔つきが、リングに立つと鋭くなった」。フィリピンに遠征し、日本フェザー級6位に。故障で引退後、復帰に向け体力づくりを兼ねて働いていたみそ製造会社で事件が起きた。

 1966年8月、一家4人殺害容疑などで逮捕され、過酷な取り調べを受けた。いったん「自白」したが、静岡地裁の初公判で無罪を主張した。「我敗(ま)くることなし」。獄中から手紙を出し、一、二審で死刑判決を受けても揺るがぬ闘志をつづった。東京拘置所の収容者仲間には「外に出たらまたボクシングをやる」と話していたという。

 死刑が確定した80年ごろ、異変が起きた。手紙に「悪魔」「電波」といった言葉が連なり、面会で「死刑制度を廃止した」と口にした。やがて、姉ひで子さん(91)との面会も拒むようになった。

 2014年3月、静岡地裁決定で48年ぶりに釈放された。「自由になれるといいんだけどな」。多摩あおば病院(東京)の中島直院長(59)は拘置所を出て入院した袴田さんがつぶやくのを聞いた。釈放の実感がないのか、的外れなことを口にするなど拘禁症は良くならなかった。

 退院後、浜松市のひで子さん宅で暮らす。能面のようだった表情は和らいだが、「ばい菌から浜松を守るため」と毎日、外出。ボクシングの話を自らすることは、ない。

 中島院長は「ここまで症状が続くのは極めて珍しく、今後、改善するか分からない」と語る。ひで子さんは「長期間拘束された代償は大きい」と嘆いた。

 袴田巌さんが再審無罪となった。事件が関係者や司法、社会に与えた影響を考える。

(共同通信)