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焼ける町、泣き崩れるおば「恐怖でぶるぶる震えた」 與儀正仁さん(91)<戦が来た日 10・10空襲80年>5


焼ける町、泣き崩れるおば「恐怖でぶるぶる震えた」 與儀正仁さん(91)<戦が来た日 10・10空襲80年>5 焼失した家と泣き崩れる伯母を見て「恐怖でぶるぶる震えた」と話す與儀正仁さん=1日、北谷町砂辺
この記事を書いた人 Avatar photo 金盛 文香

 県民の暮らしや産業を破壊し、沖縄戦の始まりと語られる1944年10月10日の「10・10空襲」から80年。旧那覇市を中心に県内全域が米軍機の無差別攻撃にさらされ、町は焼け野原になった。約9時間にわたって行われた爆撃に日本軍はほとんど対応できず、民間人を含め少なくとも668人が死亡し、海上でも多くの犠牲者が出た。10・10空襲を境に、空襲は翌3月末の米軍上陸による地上戦が行われるまで断続的に行われた。 

 米軍嘉手納基地を離着陸する戦闘機の騒音がたびたび100デシベルを超える北谷町砂辺。「爆音はひどくなっている。大きい戦争が起きないか、恐怖がある」。與儀正仁さん(91)の記憶が呼び起こされる。1944年10月10日、同じように米軍機が砂辺の上空を飛んでいた。焼かれる町、泣き崩れる人を目撃し、與儀さんは震えた。

 「友軍(日本軍)の演習だと思って飛行場を見に行った」。與儀さんは当時北谷国民学校5年生だった。兄に連れられ、建設中の日本軍の中飛行場(現米軍嘉手納飛行場)を望める丘に登った。友軍と思った機体は低空で中飛行場を爆撃し、與儀さんの目の前で旋回した。「機体に米軍の星(のマーク)が見えた」。直後、日本兵が「敵機来襲!」と声を上げた。

 恐怖から足がすくんだ。兄に引っ張られて自宅の壕に逃げ込んだ。夜になって壕から出ると、おばの家が焼失していた。「おばが屋敷に座り込んで、ワーワー泣いていた。それを見て僕も泣いた。火事を見ながら恐怖でぶるぶる震えた」。戦争が来たことを体感した日だった。

 北谷村(当時)では10・10空襲で少なくとも31人が亡くなった。住民を動員して建設した中飛行場が爆撃を受けた。

 年が明けた1月3日以降、中飛行場などを標的とする空襲が続いた。與儀さんは壕での生活を強いられた。自宅近くにあるクマヤーガマに、朝早くから日が暮れるまで隠れた。3月24日には米軍による上陸作戦前の艦砲射撃が始まった。「空襲に艦砲射撃。いつ崩れるか分からない恐怖があった」。ガマに潜む生活は3月末まで続いた。

 3月末、日本兵が砂辺の住民に北部へ逃げるよう告げた。4月1日、読谷山村波平(現読谷村)から砂辺を含む北谷村桑江までの海岸で米軍は上陸作戦を開始した。家族は散り散りになりながら、7日ごろ、羽地村仲尾次(現名護市)に着いた。それから3カ月以上、北部の山中を逃げ惑った。

 7月に久志村大川(同)へたどり着く。その頃には人の遺体を見ても「何の感情もなかった。かわいそうだとも思わなかった」。そこで米軍トラックが来て保護された。宜野座村で母や弟と再会できたが、故郷に戻れたのは54年だった。

 今も上空を飛ぶ米軍の戦闘機。「間違って機銃掃射されないか」。そんな不安は今も消えない。

 (金盛文香)

 (おわり)