芸能・文化

<インタビュー・赤いゴーヤーは甘かった>写真家・比嘉豊光さん

 写真家の比嘉豊光さんが1日から宜野湾市の佐喜眞美術館で、30年余の写真活動をまとめた写真展「OKINAWA・沖縄・うちなー」を開いている。写真展と合わせて、琉球大学写真クラブ在籍時の1970―72年の作品を集めた写真集「赤いゴーヤー」を出版した。過去の自作を出版した意図などを含め、比嘉さんに聞いた。(文化部・小那覇安剛)

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 ―復帰当時の作品を今回まとめたのはなぜか。
 「この写真を初めて展示したのは復帰の年の琉大写真クラブ合同展だった。復帰30年の年に開催した『フォトネシア/光の記憶・時の果実』の際、30年ぶりにネガを見直すと、あの時はプリントしなかったコマの中にも、いいものが出てきた。当時は気付かなかったし、あえて外したのかもしれない。撮影者は同じでも時代は変わったし、コマを選択する自分の意識も変わった」
 「眠っていたネガを今回よみがえらせて、世に出すことは、沖縄を撮る人の義務だ。自己満足や回顧のためだけなら世に出す必要はない。ネガを眠らせてしまっては記録が死んでしまう。写真を見る側も、32年前の写真に新しい目線で向き合うことで、『沖縄』を自分のものとし、考えることができると思う」

 ―70年代、撮影するなかで意識したことは。
 「激動の沖縄であり、時代だった。琉大写真クラブでも沖縄の現状を記録しようと議論し、デモや自衛隊来沖の現場を撮った。しかし、復帰後には闘争が白けてしまい、撮るものは風景へと向かった。当時の森山大道や中平卓馬らの写真や写真論の影響もあった。同時に、ヤマトから来た大勢の報道カメラマンへの反発も感じていた」

 ―反発とは何か。
 「報道のため沖縄が撮られ、週刊誌などのメディアに写真が掲載される。この、沖縄を商品化するようなヤマトの目線に対し、われわれはどのような形で撮るかを意識していた。当時は20歳前後で、ごう慢だったかもしれないが、沖縄の闘争に接して激動を撮り、何ができるのかを考えていた。週刊誌などに掲載された写真そのものを批判する実力はなかったが」

 ―最近の沖縄の写真をめぐる動きをどう見ているか。
 「今を撮れば、30年後や100年後の時代の記録となる可能性はあると若い人には言いたい。僕も写真集を作ろうとか有名になろうとは思わなかったが、撮ったものは記録となった」
 「復帰30年の年に『フォトネシア/光の記憶・時の果実』を仕掛けたが、その後の動きは乏しい。若い写真家にも人材はいるものの、沖縄にこだわり、周りを巻き込みながら撮る、あるいはヤマトを意識しながら撮るという動きはない」

 ―復帰前後のように、対ヤマトという意識で写真を撮ることは難しいのでは。
 「沖縄にこだわれば、対ヤマトという意識は自然に出てくる。政治的にも経済的にも、ましては文化的にも。沖縄をテーマに写真を撮れば、対ヤマトという意識は避けられない。逆に沖縄を売り込もうとすれば、ヤマトに取り込まれてしまう。ヤマト側の沖縄に対する文化戦略は相当進み、テレビに映る華やかさそのままのイメージが沖縄でつくられつつある。ウチナーンチュ自身が、『ちゅらさん』に出てくるような元気なオバーが沖縄中にいるような気になっている」

 ―写真集「赤いゴーヤー」の意味は。
 「僕は6月ごろから毎日、おやじの畑で収穫したゴーヤーを食べているが、時々熟れた赤いゴーヤーが見つかる。これ、食べると甘いんだよ。そのことをウチナーンチュもヤマトゥンチュもあまり知らない。新たなものを生むサニ(種子)。それを包む熟んだ赤いゴーヤーの果肉とその甘さ。そういう本質にこだわることが、本来の文化ではないか」
 「県が公募したゴーヤーの新品種名が、ヤマトゥンチュが名付けた『島風』に決まったという記事を見て、『アイヤ、デージナトン』(大変だ)と驚いた。70年代にヤマトのカメラマンが沖縄を撮りに来た時と同じで、『ナーウチナームン、ムル、アマムンナイサヤー』(もう沖縄のものは、全部あそこのものになってしまう)と思った。しかし、“赤いゴーヤー”までは持って行けないはずだ。政治的にも文化的にも沖縄は取り込まれてしまい、残り物はわずかだ。その残りものをウチナーンチュがしっかり見て、守っていかなければならないのではないか」

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 写真展「OKINAWA・沖縄・うちなー」は27日まで(火曜日休館)。大人700円、中高生600円、小人300円。写真集「赤いゴーヤー」は2500円。