[72 尖閣諸島遭難(4)]ついに“決死隊”編成

急造船で石垣島に着く

 島にある青いものはすべて試食され、食べられるものはほとんど食べた。食糧は尽きていく。衰弱はひどくなり、1人、また1人と死んでいった。最初のころは救出する船がやってくることを期待していたが、やがてその希望が薄いことを長い遭難生活の中で知っていった。「ここで死を待つよりない」。そんなあきらめもあった。

 遭難から1カ月が過ぎた8月の初めごろ、「“決死隊”を送ろう」ということが決まった。島の裏側に打ち上げられた難破船を利用、その板やクギで舟を造り、連絡のための“決死隊”を送る。百数十人の命をつなぐ小舟を造ろう―助かる道はこれしかなかった。

 遭難した数日後、機関の修理をした第一千早丸(友福丸)が石垣に連絡のため向かった。だが、途中でエンジンが故障、友福丸を放棄して乗組員は小伝馬舟に乗り移り、やっとの思いで島まで引き返している。それ以来、外部への連絡の手段は何一つ失われていた。

 舟造りには一つの幸運があった。遭難者の中に船大工の八木由雄さん(旧姓・岡本、当時33歳)がいたからだ。しかも大工道具が焼けずに残っていた。

 遭難者たちに希望がわいた。「自分はもうだめだ」と寝ていた人までが、船材を運びに出掛けたという。難破船の板をはがし、クギを抜いて一本一本真っすぐにする。男は解体し材料を運ぶ。女は布を出し合い帆を作った。八木さんが体力をギリギリまで消耗させて長さ5メートルのサバニが完成したのは10日目のことだった。石垣までの170キロの海を乗り越していく舟だ。

 “決死隊”が編成された。乗組員が主体だ。上原亀太郎さん(当時22歳)、栄野川盛長さん(同18歳)、伊礼良精さん(同)、伊礼正徳さん(不明)、美里勇吉さん(同17歳)、美里清吉さん(同20歳)と金城珍吉さんの7人に山内軍曹、それと出発間際に氏名不詳の主計准尉が乗り込んでいる。

 出発の前にツメと髪を切り、遺品として預けた。餓死寸前の疎開者の一るの望みを背負った小舟がみんなに見送られ出発したのは8月12日の午後5時ごろ。“決死隊”の頭には赤いハチ巻きがしめられていた。遭難者の中から「祖母の米寿祝いの縁起のいい着物。成功して全員を救ってほしい」と贈られた着物で作ったハチ巻きだ。

 “決死隊”の成否を握る海図とコンパスは帆柱にしっかりとしばった。舟は順風を得て快調に走った。敵機との出遭いが怖かった。飛行機が来るたびに舟をひっくり返し、その陰で通り過ぎるのを待った。

 翌13日は風が止まった。ただ必死にカイでこぐしかなかった。こいでいる最中にも「果たして八重山にたどりつけるのか」の不安は走った。疲れも出てくる。そんな時、雲間から山が二つ見えた。「宮古には山がない。あれは間違いなく石垣のオモト岳だ」。「ひもじさも苦しさも吹き飛んで急に元気が出た。みんなの目が輝き、こぐ腕にも力が入った。力の限りこいだ」(金城さん)

 舟が川平の底地湾に着いたのは、その翌日の14日夜だ。出発以来2昼夜、クバのシン芽だけで体力を支えていた。疲れ切った体をお互いに抱きあい涙が出るだけ。体力が尽きて動けない。そのうち1人が近くの野生のバンジロウをもぎ、みんなのところに投げた。それをかじった時、やっと一息ついた。

 やがて川平の群星御獄に駐屯していた部隊に、さらに旅団に連絡が飛んだ。初めて惨状を知り、びっくり、直ちに台湾へ打電、終戦の日の翌16日、飛行機から食糧が魚釣島に投下された。

 今年65歳の金城さんは「群星御獄の神様に引っぱられたと思い、いつも感謝している」と言う。その後、尖閣には行ったことはない。「本当はね、身震いして話したくないんですよ」

(「戦禍を掘る」取材班)

1983年12月21日掲載