[81 女学生の集団自決(1)]「太陽見て死にたい」

やみ夜に「ふるさと」の歌

 波が打ち寄せる絶壁の上で、輪になって座っていた女性とたちはしくしく泣き出した。深夜だった。「もう一回、太陽の下を大手を振って歩いてから死にたいね」。輪の中の1人がそうつぶやくと、まもなくだれからともなく「ふるさと」の歌が始まった。

 すすり泣きが聞こえる。みんな精いっぱい歌っているつもりだが、思うように声にならない。暗くてお互いの顔もはっきりと見えない。が、涙がとめどなくあふれ出ていることだけは確かだった。

 「あの晩のみんなの声がいつまでたっても忘れられません」。翌日起きた悪夢の集団自決を、思いもよらないことから免れた宮城(旧姓)喜久子さん(56)=那覇市首里儀保=は、無残な最期を遂げた仲間たちのことを思い出して声を落とした。

 昭和20年6月19日、米軍の猛攻撃に追われて宮城さんたちのグループは沖縄本島南部の喜屋武岬にたどり着いた。

 メンバーは全員で12人。“ひめゆり学徒隊”として沖縄戦に駆り出された県立第一高等女学校の生徒のうち3、4年生の9人と、途中で仲間に入れてほしいと言ってきた地元に住む同校卒業生2人、そして平良松四郎教諭の顔があった。

 このグループは、その2カ月ほど前に“ひめゆり学徒隊”が分散勤務となった際、球部隊軍医部の経理部として南風原・津嘉山で組織され、当初の人数はもっと多かったという。激しい戦火に見舞われて南部へ撤退、糸満・伊原の第1外科壕に移ってきたが、1週間余りたった6月18日に非情の解散命令が出た。壕を脱出して喜屋武岬へ逃げ延びるまでに、何人かが爆風にやられ、息絶えている。行方知れずになった者もいた。

 岬に着いた時は、すっかり日が暮れていた。その時の模様を宮城さんは振り返る。

 「大雨の夜でした。私たちは、そこに着く直前にはぐれてしまったらしい石川義雄先生と仲栄真助八先生の2人を捜そうと必死で、アダンのトゲに足を刺されながらも一帯を歩き回ったものです」

 「せんせーい、せんせーい」と何度も大声を上げて呼んだが、いっこうに返事はない。女生徒たちはワーワー泣き出していた。雨足は弱まるどころか勢いを増すばかり。2人の先生がどうしても見つからず、あきらめの表情に変わった生徒たちは、とたんにものすごい疲労感に襲われた。

 「そのままアダンの根元に腰を下ろし、ずぶぬれの状態で横になりました。食べ物を口にしなくなってどれだけたっていたでしょうか。おなかがすいて、のどもカラカラ。せめてのどだけでもうるおそうと、何か臭いなと思いながらも近くのたまり水を飲み、いつの間にか寝込んじゃいました」

 あくる朝、目をさました宮城さんは周りを見渡してびっくりした。ブヨブヨに膨れ上がった死体がいっぱい。ウジも湧いていた。「そう言えば、昨夜、臭いと思いながらも飲んだ水は…」

 慌てて飛び起き、海岸べりへ一目散に駆け出して行ったという。

(「戦禍を掘る」取材班)

1985年4月3日掲載

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