おなかが
さいこうにまあるくなった
その日
わたしの子は
地球とおないどしになった
そして
生まれた
(わたしの子は)
この冒頭の詩が全体を読み終わった後にとてつもなく壮大な神話性をはらんでいることに気づく。詩人の妄想、夢想、想念がビッグバンや地球誕生の創世物語を引きずって、人間の魂の闇に居座っている姿をよみがえらせる。すると、どの作品にも寂寥感(せきりょうかん)が漂い、人間のみならず地球、いや宇宙そのものまでが孤独な存在に感じてしまうことになる。
子宮の奥の不条理な「遠い内密の地理」を振り返ってさまよってしまった魂には、見えるものがある。感じられるものがある。
植物の根のように/臍(へそ)の緒は大地に伸びすすむ/時間をずんずん億年をずんずん(略)、、、「この星の生きものの歴史をからだで」なぞった後、呼び掛ける。
子よ あなたは/大地のどのあたりで/女神のものから/人間のものになるのでしょう(地球の子)
無限の存在が有限の存在となり、有限の存在が無限の存在を渇望するという苦悶(くもん)の始まりである。その苦悶は何によって癒やされるだろうか。
「光るしきいの∞の家」で「月」の「夜伽(よとぎ)」を受けられるのはどんな魂の人だろうか。詩人は予感のまま終わらせる。起承転結の章立ての扉が、「結」の扉を持たず、未来永劫(えいごう)完結のない循環を暗示しているのはそのためである。それどころか、「生まれた子の産毛が釘(くぎ)にみえた」という恐ろしい想念(妄想)はキリストの磔(はりつけ)刑を連想し、人は生まれながらに苦悶と無縁でないことを知らされているかのようである。
とはいえ、知的に計算し尽くされた詩集の至る所に散りばめられた詩句の美しさよ。哀れさよ。男と女、生と死、有限と無限の境界に咲いた花のように。(勝連繁雄・詩人)
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いちはら・ちかこ 1951年、宮古島市池間島生まれ。59年、那覇市へ移り住む。70年、進学のため上京。詩作を始める。72年、東京都内の小学校に就職。2004年、教職を辞し、郷里へ。詩集「海のトンネル」で山之口貘賞受賞。