『畑人の戦みち』 庶民が体験した日本の中国侵略


社会
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『畑人(ハルサー)の戦(いくさ)みち-満州へ渡った沖縄人(うちなーんちゅ)の物語」源河朝良著 あけぼの出版・1800円+税

 本書は、「満蒙開拓団」として渡った中国で、地獄を見た男とその家族の軌跡をつづった物語である。兼城賢清が満州に入植したのは、1941(昭和16)年である。広大な土地は肥沃(ひよく)で、作物はどれも沖縄の倍以上に成長した。この田畑は、昔からそこで生活を営んできた満人(中国人)たちが耕してきたものではないかという疑問が湧いたが、賢清はそれについて深く考えることはなかった。

 翌42年7月、賢清は沖縄の妻と娘3人を迎えて満州に戻った。既に太平洋戦争が始まっていたが、時局の動向に関心の薄かった賢清には、泥沼化している日中戦争の動向同様、危機が迫っている意識はなかった。45年7月、賢清は現地で軍に召集されるが、敗戦でシベリアに抑留。49年5月に佐世保経由で沖縄に帰った。
 妻ナエは先に沖縄に戻っていたが、沖縄で生まれた3人の娘、中国で生まれた四女、五女を含む5人の子どもは一人も連れていなかった。三女は賢清が召集される前に病死、引き揚げの途中、中国人について行った当時5歳の次女江美子を除くほかの3人は、栄養失調や病気で衰弱し死亡した。
 賢清は、悲嘆にくれて己を責める妻を励まし続け、二男三女に恵まれる。沖縄に戻って間もなく賢清夫婦は、満州に渡る前に住んでいた屋敷と田畑が、米軍に接収され、基地にされている光景を見て、満州に入植した当時のことを思い出し、「満蒙開拓団」の欺瞞(ぎまん)に気がついた。そこには、戦争に翻弄(ほんろう)された己の悲惨な被害者としての姿と、植民地の先兵とされた加害への反省と無知への悔恨がある。
 賢清は、シベリア抑留中に聴いたレーニンに傾倒し、沖縄のレーニンを求めて瀬長亀次郎に出会い、人民党に入党して活動しながら、中国で生きているはずの次女江美子との再会・帰国に全力で取り組む。DNA鑑定まで行きながら、親子の認証を得られない結末に、胸を締め付けられる思いがする。戦後70年に当たり、庶民が体験した日本の中国侵略と、戦争とは何かを考えさせる貴重な記録である。
 (上里賢一・日中友好協会沖縄県支部長)
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 げんか・ちょうりょう 1945年、沖縄市安慶田生まれ。コザ高校、九州大学法学部を卒業。県立高校で社会科教諭として勤務した。「青ざめた街」で第3回琉球新報短編小説賞の佳作を受賞。