いとこの遺影に母親の写真添え 対馬丸撃沈71年


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記念館の壁に掛けられた、いとこの遺影を前にほっとした表情を浮かべる野原康義さん=20日午後、那覇市若狭の対馬丸記念館

 「71年たってようやく息子を連れてきましたよ」。いとこの知念政立(まさたつ)さん(当時14歳、那覇国民学校高等科2年)の遺影が20日、対馬丸記念館に追加された野原康義(やすよし)さん(80)=浦添市=は、知念さんの母マヅルさん(故人)の写真を遺影の裏に貼り付けた。

71年前に戦争で離れ離れになった子どもを母に抱かせるように。疎開児童783人を含む1484人が犠牲になった対馬丸撃沈から22日で71年を迎える。
 マヅルさんは、政立さん、娘の政枝さん(当時11歳、甲辰国民学校6年)を対馬丸に乗せ、自身は夫と本島北部に疎開。2人の子どもは対馬丸撃沈で亡くなった。「やんばるに疎開したら助かったのに。私が子どもたちを殺した」。マヅルさんは戦後、何かにつけて口にしていたという。
 戦後、夫にも先立たれ、1人になったマヅルさんは、おいの野原さんを子どものようにかわいがっていた。いつもニコニコしていて寂しいそぶりは見せない伯母だったが、「内心は寂しいのだろう」と野原さんは感じていた。
 戦前に大阪に引っ越していた野原さんは政立さんと面識はないが、かわいがってくれた伯母を思い、いとこの写真を探してきた。「伯母も喜んでいるはず」とほっとした表情を見せた。
 対馬丸記念会の外間邦子常務理事(76)は「子どもたちは『お母さん、お母さん』と叫びながら沈んでいったはず。71年たって母の胸に抱かれ、親子とも安らかになれたと思う」と話した。