戦争への道拒む 元日本兵松田さん、安保法案に危機感


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出征中に受けた胸の傷を見せる元日本兵の松田栄喜さん=10日、読谷村楚辺

 元日本兵で旧満州(中国東北部)やマレーシア、シンガポールに出征し、負傷して除隊後、沖縄戦に巻き込まれた松田栄喜さん(94)=読谷村楚辺=は、集団的自衛権の行使や政府が成立を目指す安全保障関連法案の動きに危機感を募らせている。

「兵隊の命は軍馬より軽い」と言われた兵士の一人として、現実の戦争を見てきた。だからこそ戦争につながるものへの拒否感を表しながら「戦争につながるような法案はつくらない方がいい」と語る。
 松田さんは1940年2月、18歳で陸軍に志願し第18師団に入隊した。中国に駐留後、41年12月8日、英国の軍事拠点だったシンガポール陥落を目指すマレー作戦に参加した。シンガポールへ進軍中に砲弾の破片を胸に受けて重傷を負ったが「戦争が終わった」と喜びを感じた。
 初年兵は上級兵に殴られ、身の回りの世話も強いられた。松田さんは「行軍中歩けない兵隊は捨てていかれた。戦死しても遺体はほったらかし。指一本でも持って帰ってもらったらいい方だった」と振り返る。
 シンガポールの負傷で後方に送られて除隊した。43年5月、約3年ぶりに沖縄へ帰郷し、日本軍の軍属として働いた。だが約2年後には再び戦渦に巻き込まれる。
 45年4月、米軍が沖縄本島に上陸すると、松田さんは武器も持たずに日本軍と行動を共にした。首里城の陣地周辺にあった亀甲墓に身を隠していたが、米軍の進攻に伴い、南部へ避難した。南部は負傷した兵や避難民であふれかえり、道々には多数の死体があった。松田さんは「生きるのに必死で何とも思わなかった。戦争は人間性が失われ、人が動物になる」と語る。
 松田さんと同僚2人は、日本軍から離れ、決死の覚悟で糸満市名城の海岸から海に入り、泳いで豊見城市与根に渡った。北部へ向かう途中、同僚の1人が米兵に腹を打たれた。同僚は「もう一緒にいけない」などと述べ、ピストルで首を撃って自殺した。
 その後、松田さんらは北部から逃げてきた防衛隊員の勧めにより米軍の捕虜となった。「もう戦争はこりごり。『お国のため』とか言えない。生きることしか考えられなかった。若い世代は戦争のない世の中をつくってほしい」と戦火の下を転々とした自らの人生を振り返り、次世代へ願いを込めた。(梅田正覚)