ハンセン病、理解深めて 回復者・宮良さん、母校で講演


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
ハンセン病への理解がさらに広がることを願い、療養所の非入所者に「勇気を持って名乗り出てほしい」と呼び掛ける宮良正吉さん=石垣市

 【石垣】「ハンセン病について勇気を持って話ができる社会になってほしい」。石垣市出身で、ハンセン病回復者らでつくる全国退所者原告団連絡会事務局長の宮良正吉さん(70)は八重山でもハンセン病問題への理解がさらに進むことを強く願った。

 石垣市で生まれ、小学4年生の時にハンセン病を発症していることが分かった。翌年には名護市の国立療養所沖縄愛楽園に入所が決まり、石垣島を離れた。
 高校進学で治療しながら通学できる高校があった岡山県に移り、卒業後は大阪府の印刷会社に入社した。「県内では回復者が成績優秀だったにもかかわらず入学を拒否されたことがあった。偏見はひどかった」と、宮良さんは岡山県に移住した経緯を振り返った。
 その後、会社の同僚と結婚し、子どもにも恵まれた。結婚前に迷惑を掛けたくないと妻にはハンセン病だったことを打ち明けたが、子どもたちには話せずにいた。社会生活でも偏見が怖く、病歴に気付かれないようにしていた。
 ただ息子に孫ができた時、宮良さんは抱くことができなかった。自身でも衝撃だったという。
 「当時は免疫が少ない幼児はうつりやすいと、何度も聞かされた。頭では理解してても、体に染み付いていてできなかった」と首を振った。
 2001年に国に賠償を求めるハンセン病訴訟の原告団に加わり、周囲に病歴や偏見に恐れた経験を説明するように、次第に前向きに変わっていった。
 宮良さんは4日、母校の石垣小学校で初めて講演会を開いた。小学4年で離れて以来、60年ぶりに校舎の門をくぐった。子どもたちにハンセン病のため苦しんだ自身の経験を切々と話した。
 宮良さんは「八重山では啓発が弱く、ハンセン病への理解が進んでいない現状は否めない。ハンセン病はうつるといまだに思っている人もいると思う。そんな環境を変える、ハンセン病回復者と社会をつなぐ窓口となる居場所づくりを、行政も一緒になって取り組んでほしい」と強調した。
 ハンセン病の療養所に入所せずに回復した非入所者にも支給される補償金の期限が、来年3月末に迫っている。宮良さんは「勇気を持って名乗り出てほしい」と呼び掛けた。(謝花史哲)