1900年6月29日付の琉球新報の「本部通信」は当時の本部間切の渡久地村を名護に次ぐ「国頭地方第二の都会」と評した。雑貨屋八軒、料理屋三軒は「すこぶる繁盛」。ヤンバル船の停泊地だった渡久地港を通し人やモノが行き交った
▼「国頭郡志」(1919年)によると、大正時代には行政機関が集中、商店は数十軒あった。市場の活気は名護とは比較にならず、魚類や甘藷(かんしょ)、雑穀、果実などの売買は終始混雑した
▼80年前の10・10空襲で大きな被害を受けた渡久地の街。戦後の貧しい時代、闇市からスタートしたのが現在の本部町営市場。66年に建設された市場の建物は老朽化のため、姿を消すことになった
▼58年前に建設された建物は鉄筋が腐食し、海砂を使っていた時代のコンクリートは剝離もみられる。町は補強も検討したが、壁が少ない構造上、難しいと判断したという。突然の決定に入居店舗には困惑も広がる
▼塾の迎えを待つ学生、市場を憩いの場として利用する住民も多い。町は再整備計画を立てる予定で、取り壊しの時期は入居店舗と話し合う。行政と町民の協働で描く将来像を期待している。