沖縄戦ってどんな戦争だったの?

読谷村渡具知海岸から沖縄本島に上陸した米軍
=1945年4月1日(沖縄県公文書館所蔵)

 1945年3月末から6月末にかけて、日本軍とアメリカ軍が沖縄本島を中心に激しい戦争をしました。沖縄戦です。この戦いで、多くの兵士が戦死しました。さらに、一般の住民が戦闘に巻き込まれ、貴い命を失いました。一般住民の犠牲者数は、戦死した兵士の数を大きく上回ります。幼い子どもたちも死んでしまいました。


 沖縄の人々は戦争を望んだわけではありませんでした。しかし、「本土防衛」を目的に日本軍の基地や陣地が沖縄本島や離島に建設されました。日本軍の戦争準備には多くの県民が駆り出されました。そこへ米軍が上陸し、戦場となってしまったのです。なぜ、沖縄が激しい戦争の舞台とならなければならなかったのか。その結果、どのような悲しい出来事が起きてしまったのでしょうか。

絶対国防圏の中の不沈空母

 1943年9月、日本は本土防衛のために確保しなければならない区域として「絶対国防圏」を決定しました。千島列島からマリアナ諸島、ビルマなどを結ぶ広大な防衛線で、戦争を行うための資源などを確保するのが目的でした。これにより日本の南西諸島の防衛が強化され、また空の作戦を優位に進めるための「制空権」を奪い返すために、沖縄の各地で「不沈空母」(沈まない空母)として飛行場を建設します。周辺離島も含め十数カ所に飛行場を造りました。

 44年3月22日に日本軍は第32軍を組織しました。この年の夏から日本軍の部隊が続々と沖縄に配備されます。

米軍の上陸を前に撮影した日本軍第32軍の集合写真
=1945年2月(沖縄県公文書館所蔵)

 1944年6月以降、米軍は日本の「委任統治領」だったサイパン島、テニアン島に攻め込み、ロタ島にも空襲を加えました。激しい戦闘に沖縄の人々が巻き込まれ、犠牲となったのです。

 南洋群島の戦争は米軍が勝利し、1941年12月の奇襲攻撃で始まった太平洋戦争に日本が負けることは決定的となります。南洋での戦争は沖縄住民に大きな衝撃を与え、戦争への恐怖をかきたてました。

収容所に移される前に配給品を受け取っている地元民
=1944年6月、サイパン島(沖縄県公文書館所蔵)
対馬丸沈没と10・10空襲

 南洋の島々での戦闘にアメリカ軍が勝ったことで、アメリカ軍が沖縄を攻撃する恐れが一層強まりました。日本軍とアメリカ軍が日本本土で戦う「本土決戦」の可能性も出てきました。

 そこで日本政府は7月、戦場になるかもしれない沖縄の住民を本土や台湾へ疎開させることを決めます。ところが制海権を失ったなかでの船での疎開は危険が伴いました。疎開する子どもたちを載せた「対馬丸」は1944年8月21日、約1700人を乗せ、九州を目指して那覇の港を出発しました。ところが「対馬丸」の動きをアメリカ軍は知っていました。22日夜、鹿児島県悪石島の沖合で、アメリカ軍の潜水艦「ボーフィン号」による魚雷攻撃を受けて「対馬丸」は沈んでしまい、約1500人が犠牲となりました。

対馬丸(日本郵船歴史博物館所蔵)

 さらに沖縄の人々を恐怖のどん底に陥れたのが1944年10月の那覇市を中心としたアメリカ軍の空襲です。「10・10空襲」と呼ばれています。

 アメリカ軍の機動部隊は10日早朝から夕刻にかけて5回にわたって激しい空襲を繰り返しました。この空襲で一般住民を含め、約660人が亡くなりました。特に被害の大きかった那覇市は約90%が焼失してしまいました。攻撃の目標は軍事施設だけではなく病院など民間地域にも対象になりました。事実上の無差別攻撃だったのです。

 那覇市以外でも、読谷村や本部町も空襲に遭いました。この空襲は「沖縄戦」の前触れとなりました。アメリカ軍の上陸、地上戦がいよいよ現実味を帯びてくるのです。

10・10空襲によって破壊される那覇の街
=1944年10月10日(沖縄県公文書館所蔵)

 日本軍はもともと沖縄上陸しようとするアメリカ軍と水際で戦い、打ち負かす作戦でした。ところが予想外の事態が起きました。1944年11月になり、沖縄に配備された部隊の中でも最も強力と言われた「第9師団」が台湾に移動することが決まり、日本軍の力は大幅に弱まることになったのです。

 そこで日本軍は作戦を変更し、上陸してきたアメリカ軍をできるだけ沖縄に足止めさせて、戦争を長引かせることにしたのです。そうすることによって日本本土での戦争を遅らせ、その間に本土での戦争準備を整える考えでした。沖縄は本土を守るための「捨て石」となったのです。この作戦によって一般住民を戦闘に巻き込み、犠牲を増やす結果を生んだのです。

艦砲射撃や空襲で荒れ果てた与那原(沖縄県公文書館所蔵)
戦争に巻き込まれた若者、
海から渡ってきた人々

 日本軍は中学校(今の高校生)や師範学校(教師を育てるための学校)、高等女学校で学んでいる若者も戦場へ駆り立てました。その数は2000人以上にもなります。まだ20歳にもならない若者たちが「鉄血勤皇隊」や「ひめゆり学徒隊」などとして日本軍の陣地づくりや弾薬運び、負傷した兵士の看護などをさせられます。村や離島の青年学校で学んできた若者も軍に組み込まれました。アメリカ軍を混乱させるゲリラ戦を展開する「護郷隊」という名の部隊も若者が入れられました。このように沖縄の住民はことごとく戦争へと巻き込まれていったのです。

 そして、忘れてはならない人々がいます。戦争準備が進む沖縄に、朝鮮半島から大勢の人々が日本軍によって連れてこられたのです。正確な人数は分かっていませんが、約1万人と言われています。

 男性は日本軍の基地づくりに参加させられました。女性は日本兵の相手をさせられ、体を痛めつけられ、深い心の傷を負いました。そして、戦争に巻き込まれ、多くの人が亡くなったのです。

米軍が慶良間、
沖縄本島に上陸

 アメリカ軍は3月26日朝から沖縄本島の西にある慶良間の島々に次々と上陸しました。アメリカ軍が上陸した座間味島、慶留間島、渡嘉敷島では住民が混乱状態に陥った末に、手りゅう弾を使って自ら命を絶ち、さらに、かまやカミソリ、棒などを使って殺し合ってしまいます。沖縄戦最大の悲劇であり「集団自決(強制集団死)」と言われています。

 島々に陣地を構えた日本軍と住民の関係が背景にあります。島の中で日本軍は強い力を発揮し、村役場も人々も軍の支配下にありました。住民は自由に物事を考え、行動することができず、その中で、日本軍は米軍に捕まることを禁じていました。米軍に捕まれば無残な目に遭うという恐怖心が住民の心に植え付けられました。自ら命を絶つこと以外の方法を奪われていたのです。日本軍による「自決命令」があったという話もあります。米軍に捕まるのは恥であり、「立派な日本人として死にたい」という思い込みも「集団自決」につながったのかもしれません。

米軍に保護された座間味の住民(沖縄県公文書館所蔵)

 3月23日に沖縄本島に爆弾攻撃を始めたアメリカ軍は4月1日朝、嘉手納町から読谷村にかけての海岸に上陸します。アメリカ軍は約11万発もの砲弾を撃ち込みました。海はたくさんのアメリカ軍の艦船で真っ黒に埋め尽くされていたといいます。

 沖縄戦に参加したアメリカ兵は約54万人で、そのうち18万3000人が上陸。それに対し日本兵は11万人で、そのうち2万数千人は沖縄で集めた「防衛隊」や学徒隊でした。日本軍とアメリカ軍の力の差ははっきりしていました。

 上陸したアメリカ軍は数日のうちに沖縄本島を南北に分断し、南に下っていったアメリカ軍との戦いで、日本軍は多くの戦死者を出しながら徐々に撤退していきます。日本軍は総攻撃を試みましたが、失敗に終わってしまいます。5月中旬から下旬までの戦いで、日本軍は司令部がある首里まで追いつめられました。

 首里の目前まで撤退した日本軍の敗北は誰の目にも明らかでした。それでも戦争をやめることはありませんでした。日本軍の責任者は少しでも長くアメリカ軍を沖縄に足止めさせて、「本土決戦」を遅らせるという時間稼ぎの「戦略持久戦」を続けることにしたのです。そのことが日本兵の戦死者を増やし、住民の犠牲を大きくしたのです。

読谷村の海岸から沖縄本島に上陸する米軍の海兵隊員
=1945年4月1日(沖縄県公文書館所蔵)
日本軍の夜間爆撃に対し、米軍が対空砲火で交戦
=1945年(米公文書館提供)
南部撤退、
そして最後の戦いへ

 戦争中、首里城の地下には日本軍司令部の陣地が密かに掘られていました。「32軍司令部壕」です。この司令部で沖縄戦の作戦が練られたのです。

 5月下旬、アメリカ軍の攻撃は司令部の目前にまで迫ってきました。そこで司令部の責任者たちは本島南端の糸満市摩文仁(まぶに)に司令部を移し、部隊も南部一帯に撤退させて、アメリカ軍との戦闘をぎりぎりまで続けることにしたのです。

 日本軍の南部撤退に島田叡(しまだ・あきら)沖縄県知事は強く反対しました。南部に避難していた住民が戦争に巻き込まれることを恐れ、作戦を変更するよう司令部に求めたのです。しかし、島田県知事の訴えは受け入れられませんでした。

首里城の下にあった第32軍司令部壕=1945年(沖縄県公文書館所蔵)

 日本軍が移動してきた6月上旬の南部はまだ静けさを保っていました。そこへ日本軍を追ってアメリカ軍が攻め込み、激しい戦闘が始まりました。日本兵とアメリカ兵の戦闘地域と住民が身を隠す避難地域の区別はなくなり、住民と日本兵が入り交じり、混乱状態となりました。この中で日本兵は、戦争を続けるため、洞穴に隠れていた住民を追い出したり、食糧を奪ったりします。スパイの容疑をかけ殺したりすることさえあったのです。

 6月19日には沖縄のアメリカ軍最高責任者のバックナー中将が戦死します。それがきっかけとなり、アメリカ軍は凶暴となり、抵抗する力もない女性やお年寄り、子どもたちを無差別に殺してしまいます。6月になり住民の犠牲者は増大します。この月だけで約4万7000人もの人が亡くなるのです。

 アメリカ軍の上陸直前から日本軍と一緒に行動してきた鉄血勤皇隊や学徒隊が6月18日から19日にかけて、解散を突然言い渡されます。日本兵を信じてきた学徒たちは戦場に放り投げられ、南部一帯をさまよいます。南端の海岸に追いつめられた学徒の中には、自ら命を絶った人もいます。

 沖縄本島南部での戦闘は6月下旬まで続いた後、第32軍司令部の牛島満(うしじま・みつる)司令官、長勇(ちょう・いさむ)参謀長の2人が22日に自決し、日本軍の組織的な抵抗は終わります(自決は23日だったという説もあります)。しかし、南部一帯での小さな戦闘はその後もやまず、日本兵の戦死者は増え続けます。最終的に沖縄の日本軍がアメリカ軍との降伏文書に調印をしたのは9月7日のことでした。ポツダム宣言を日本が受け入れ、敗戦が決まった8月15日よりも後のことです。

第32軍の司令部だった首里城の城壁から眺めた壊滅状態の首里の町
=1945年6月18日(沖縄県公文書館所蔵)
捕虜となった学徒隊員と朝鮮人軍夫
=1945年6月17日(沖縄県公文書館所蔵)
飢えとマラリア、
離島の悲劇

 本島の中南部から北部に疎開した人々の間では食糧不足が続いていました。大宜味村では食糧をめぐって、山にひそんでいる日本軍と住民との間で対立がおき、住民が日本兵に殺害されるという痛ましい出来事も起きました。

 米軍に捕まり、収容所に入れられた住民も飢えに苦しみました。さらにマラリアという病気にかかって命を落とす人も少なくありませんでした。激しい地上戦から生き延びた人々も、安心して生活できる保障はまったくなかったのです。

 沖縄本島では激しい地上戦が終わった後も、八重山・西表島ではマラリアにかかった人々が次々と亡くなりました。その多くは、日本軍の命令によって西表島の南にある波照間島から強制的に疎開させられた人たちでした。亡くなった人は3600人にも上ります。

 7月3日には、八重山・石垣島から台湾に疎開する人々を乗せた船がアメリカ軍の飛行機に攻撃されて沈没してしまいます。宮古島では7月になっても空襲が続いています。マラリアが広がり、食糧も不足しました。久米島では住民がスパイ容疑で日本兵に殺害される事件が起きています。

豊見城市にあった伊良波収容所(沖縄県公文書館所蔵)
八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑=石垣市

 沖縄戦では約20万人あまりもの人が亡くなりました。そのうち日本兵の戦死者は6万6000人、アメリカ兵の戦死者は1万2500人です。沖縄県民の犠牲者は一般住民が約9万4000人、沖縄出身の軍人・軍属が約2万8000人で、合計約12万2000人です。朝鮮半島から連れてこられた人々も、少なくとも300人以上が亡くなりました。軍人・軍属よりも一般住民の犠牲者が上回ったことが、沖縄戦の大きな特徴です。


 沖縄の一般住民が日本軍とアメリカ軍の激しい地上戦に巻き込まれてしまいました。アメリカ軍の無差別攻撃で多くの一般住民が亡くなりました。さらに沖縄を日本本土の防波堤とし、戦争を長引かせたことが犠牲を大きくする結果をもたらしました。日本兵による残酷な行為によって命を落とした住民もいます。


 日本の敗戦後、アメリカ軍が沖縄を占領し、27年間もアメリカの統治下におかれます。日本軍がつくった基地はアメリカ軍のものとなり、その後、基地を拡大していきます。日本軍の「基地の島」だった沖縄が、今度はアメリカ軍の「基地の島」となるのです。沖縄は1972年、日本に返還されますが、広大な基地は残されたままです。


 沖縄の山中、壕や陣地の跡には、住民や日本兵の骨が今も地中に埋もれています。不発弾も時々見つかります。そして、地上戦から生き残った県民は今も心に深い傷を負ったままなのです。沖縄戦の悲しみは今も続いているのです。