夢は家族で牧場をやりたい 多良間島で畜産に挑む湧川 農さん 【となりの人となり】


社会
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父から受け継いだ牧場を大きく発展させ、多良間の畜産に新風を吹き込んだ湧川農さん(農業生産法人合同会社湧川畜産代表)。
牛の鳴き声を子守唄に育ったというその素顔に迫ります。

(聞き手・石田奈月)

湧川 農さん 撮影・藤井千加

小さな島の大きな牧場

〝モオォォ~〟

見渡す限りの牧草地に、大きな牛たちが思い思いに草を食んでいます。肉用牛を出荷する畜産農家「湧川畜産」では、広々とした敷地を生かして牛を放牧しており、その数はなんと350頭にもなるのだとか。

「子牛を生ませる母牛が200頭います。子牛の数は変動しますが、大体150頭くらいですね」

そう語るのは湧川畜産代表の湧川農(みのり)さん。父・朝教さんから牧場を受け継いだ彼は、牛の品種改良を重ねて家業を大きく成長させました。

「子どもの頃から牛と一緒に育ってきました。10キロはある牧草のロールを、小学生の頃から1日1000個くらいトラックに積んだり…」

湧川家の子どもはそれが普通でしたよ、と農さんは笑います。彼は9人兄弟の末っ子で三男坊。生まれた時には長男のお兄さんはすでに独立しており、家の跡を継ぐのは農さんとほぼ決まっていたそうです。

多良間中学校を出て宮古工業高校へ入学した農さんは、ゆくゆくは県立農業大学校への進学を考えていました。しかし朝教さんが狭心症を患い、これまで通りには働けなくなったことで雲行きが怪しくなりました。

「父の手助けが必要になり、高校を出たらすぐ戻ってくれということになったんです。でも姉たちが『農はちゃんと大学へ行かせよう』と話し合い、交代で牧場を手伝ってくれました」

その甲斐あって農さんは無事に県立農大へ進学。2年間学んだ後、実家へ戻ることになりました。家族の期待を背負っての帰郷は、畜産農家として踏み出す最初の一歩でもありました。

牛の品質を高めるために

湧川畜産の牧場は朝教さんが一代で広げたもので、借地を含めておよそ70ヘクタールにもなります。

「親父のやり方は広い牧場に多くの牛を飼い、たくさん生ませる薄利多売の方式でした」

母牛の「たかもり」。農さんが惚れ込む立派な体格だ

多良間島での牛の値段が1頭平均30万円のところ、湧川畜産は22~23万円の安さでした。牛を品種改良して単価を上げるべきだというのが農さんの考えでしたが、方針をめぐっては朝教さんと意見が対立することもしばしばあったそうです。

親父と言い合っているうちは一人前じゃなかったんです。

湧川 農
わくがわ・みのり

1984年、多良間村生まれ。中学まで多良間島で過ごし、宮古工業高校、沖縄県立農業大学校を経て20歳で帰郷。父・朝教氏を手伝いながら人工授精による牛の品種改良や牧場設備の近代化に努め、湧川畜産を多良間有数の畜産農家に育て上げた。

「家に戻って間もない頃ですが、思ったより親父が大丈夫そうだったので、3カ月ほど家を出たことがあるんです。本島にある有名な牧場で働いて、牛のことをいろいろと学びました」

農さんが技術や知識を身に付けて成長していく一方、朝教さんは次第に現場から遠ざかるようになります。牧場に姿を見せるのが3日に1度になり、それが週に1度、月に1度となり…。そしてある日「好きにやるといい」と農さんに代替わりを伝えました。

「さんざん言い合いもしましたが、任されるとやっぱりプレッシャーを感じましたね。言い合っているというのは、誰かのせいにできるということ。つまりまだ一人前じゃなかったんだと気づかされました」

任された以上は、父よりも単価の高い牛を作らないといけない。農さんは人工授精による品種改良で、牧場の母牛の質を引き上げようと考えました。

「血統の良い母牛を作り、その牛が生んだ子牛を売りに出せるまでおよそ4年かかります。その調子で牧場の牛を入れ替えるのは大変でしたが、おかげで多良間の平均より10万円は高い値段で売れるようになりました」

農さんの計画は軌道に乗りますが、一方で朝教さんの〝薄利多売〟も正しかったと今は思っているそうです。

「この牧場は親父が一代で築いたもので、僕はその基盤を利用して牛を殖やしているだけです。親父が土地を買い、補助事業を活用して牧場をここまでにしたのと比べれば楽ですよ」

朝教さんは昨年世を去りましたが、農さんの中でその存在はますます大きなものになっています。

夢は大きく一貫経営

農さんは24歳の時、中学校の英語教師をしている多絵さんと結婚。今は晴世(はるせ)くん、惺穂(せいほ)くん、琳陽(りんよう)くん、葉生(ようせい)くんと、4人のお子さんに恵まれています。

「うちの子たちにも僕の子ども時代と同様、牧場の仕事を経験させています。牛舎の掃除からお産の手伝いまで。親がどういう仕事をしているのか見せられるのが、農業のいいところかなと思います」

手作業が主だった農さんの少年時代と比べ、今は機械化が進んだ分、格段に楽になっているのだとか。しかし農さんはその点について複雑な思いもあるそうです。

「昔はとても大変だったからこそ、いろいろ考えて、工夫して今の形を作りました。でも、楽な状態でどう次の手を考えるか、そこが難しい。ただ基盤を受け継ぐだけでは成功しませんから」

いつか子どもたちと牧場をやりたい。

湧川さん一家。母・和子さん(左端)が手に持っているのは創業者でもある父・朝教さんの遺影だ

朝教さんから牧場を受け継ぎ、近代化を進めて発展させてきた農さんならではの言葉です。とはいえ湧川畜産の今後についてお聞きすると、やはり子どもたちと一緒に牧場をやりたいという思いは強くあるようです。

「いずれは育てた牛を食肉にしてお客さんに食べていただくところまで、一貫して経営するのが目標なんですよ。そうすることで利益率が大きく上がりますから。それで子どもたちが牛を育てる部門と食肉の部門を担当してくれたら一番いいですね」

ついでに獣医と税理士も…と笑う農さん。一番上の晴世くんもまだ小学4年生なので、ビジネスを任せるのはずっと先の話になりそうです。しかし、いずれは湧川ファミリーの牧場が多良間の畜産を背負って立つようになるかもしれません。

                         (新報生活マガジンうない 2019年11-12月より転載)