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酸いも甘いも見守ってくれた首里城 100cmの視界から―あまはいくまはい―(59)


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

一夜にして燃えてしまった首里城。50年前、首里城の跡地にあった琉球大学に、私の両親は通っていました。家族みんなで復元されていくお城を眺めながら、両親の学生時代の思い出話をよく聞きました。

そして私が10歳の時に完成し、小学生は全員、首里城の貯金箱をもらいました。当時としてはまだめずらしい全館バリアフリー。いたるところにリフトがついていて、感動しました。

そして首里高校に通った私が、毎日眺めた首里城。酸いも甘いもお城に見守られ、首里城を訪れる観光客に教室から手を振ったものです。モノレールができてからは、青い空と、緑の木々に浮かび上がる、真っ赤な首里城が大好きで、夜のライトアップも幻想的でした。

首里城が燃えていく光景は、ドラマの1シーンを見ているかのようで、皮肉にも美しくありました。でも、現実だったのです。

復元が望まれ、全国から寄付金が次々と集まりました。首里城がこんなにも愛され、望まれているお城であることを、誇りに思いました。またあんなにもひどい火事だったのにもかかわらず、死者が1人もいなかったことは奇跡とも言えるし、だからこそ再建を切に願えるのでしょう。もし犠牲者が出ていたら、城を失った以外の悲しみも重なり、再建をすぐには望めなかったかもしれません。

県外で生まれ育った子どもたちにも、沖縄のことを伝えていきたいです

東日本大震災は8年以上たった今でも、仮設住宅で生活せざるを得ない人がいるし、今年の台風の被害はあまりに大きく、生活がままならない人がたくさんいます。人に対する支援はどこまでやればいいのか、平等にするにはどうしたらいいのかなど、考えることが多く、続けていくのが難しいことがあります。

また、長期化すればするほど、新たな問題も出てきてさらに複雑になり、関心も、差し伸べられる手も少なくなりがちです。苦しんでいる人に優先順位を付けることはできないのに、問題は次から次に起こるので、滞っていく必要な支援。関心を持ち、支援し続けることがどんなに難しいことか、今回改めて考えさせられました。

首里城の再建も、30年前と比べると、職人がいなくなったり、材料調達が難しかったりと、前回よりさらに長い道のりになるかもしれません。防災対策も大きな課題です。でも動き続ければ、必ず完成すると信じています。そして地震や台風の被災者にも、支援が行き届き、過ごしやすい生活が1日も早く築かれることを願います。痛みや苦しみがあるからこそ、人とつながり合える、それがうちなーんちゅです。

(次回は11月26日に掲載します)

伊是名夏子

いぜな・なつこ 1982年那覇市生まれ。コラムニスト。骨形成不全症のため車いすで生活しながら2人の子育てに奮闘中。現在は神奈川県在住。

 

(2019年11月12日 琉球新報掲載)